【2015年6月30日】

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アスペルガーとか、ADHDは最近では、よく認知されて来たように思いますが、反社会性人格障害は、あまり聞かないかもしれません。
病院で障害名をつけるときに、何も全部あてはめなくても良いのにな、とは思いますが、この人はこういう特徴もありますよ、という意味では有効なのかなと思います。

僕が診断を受けたとき、最初はアスペルガーと反社会性人格障害が強く出ていたと思います。
様々な本などで言われていますが、反社会性については、恐ろしい事件などの加害者だったり、サイコパスというのも聞いたことがあると思います。
母もビックリしたそうです。マイナスイメージが強すぎますからね。

しかし反社会だとしても、いきなり暴力をふるうわけでもありません。
最初は、ただルールを守ることが出来なかったり、自分のやりたいことがあったら嘘をついてでもやろうとするという強烈さがあるだけです。
また罪の意識も薄いのです。
僕だって罪について考えてみなさいと言われても唸ってしまいます。

なぜ、悪いことをしてはいけないのか。
これに尽きるのです。
その理由を早いうちからしっかりと根ざしておかないといけないのです。
反社会でなくてもこれは一緒だと思いますが、繰り返し教えて行かなくてはいけません。
決して押さえつけずに、また心を閉ざさしてもいけません。一番厄介になりますから。

僕は、小さい頃から確かに悪いことをしても心に響きませんでした。
大切にしている人の物を壊しても相手が悲しむ顔だけがおかしくて仕方なかったのです。
それがいけないことなのだ、というところに辿り着くことが困難でした。
悲しませてはいけないと言われても、悲しいという感覚がわからないからです。

悲しいと思わないのなら、どう思うのか、と聞かれれば、近いのは悔しいになります。
悲しいというのは、憐れむとか心が辛いとかそういうことでしょう。
僕には、そうならずに、頭に来るとか、今に見ていろ、になるだけなのです。
泣いている人を目の前にしても、残念ながら心が動くことは一切ありません。

むしろ、相手に泣かれれば、煩わしくなってしまいます。
その感情のパワーだけをとらえてしまう。
荒波のような感じです。僕にどうしろって言うんだと、逆切れするでしょう。
それか、屈服させようとするでしょう。
そういう仕組みですから、定型の人から見たら、まるで悪魔のように見えるのでしょう。

お情けや情はもっとも苦手とする分野でしょう。
僕は、情けをかけることは絶対にありません。
しかし励まし提案をすることは出来ます。
それでも、話を聞かないでまた同じことばかりして、辛い辛いと言うのなら、その辛さを楽しんでいるのかなとすら、考えてしまいます。
悲しい魔法に囚われているのかと。

反社会だからこそ、わかることもあるのです。
ルールの根源はなんだろうと考えることだって出来るでしょう。
人と人との付き合いが大きくなったものが社会であり、知らない者同士がスムーズに運営していけるためのものだということです。
しかし、自然に少しずつ身に付かないのが、僕のような人なのです。

人は心があると言いますが、僕のように感覚が薄いと困ることがいっぱいあります。
悲しいとか、切ないがわからないので罪も感じませんから。
人は皆、罰を受けること、制裁を受けることが嫌で、おとなしくしているだけだって思うのです。
本当は、飛び出して自分の好きなようにやりたいのではないかと。

ネットの世界は、良い場所でしょう。
リアルでは出来ないことをガンガンしても、へっちゃらだったりします。
いつもは、真面目に良い人で居ても、どこかで鬱憤がたまり、ネットでは牙を出すのです。
そうやってバランスを取っていることと、僕がリアルでぶつかることと大差ないのではないかって思います。

では僕が反社会だからって、何か事を起こすのでしょうか?
それはどなたにでも言えることです。
いつ窮地に立たされるかわからない世の中です。
絶対的な仏のような心でいられるのでしょうか?
もし、大切なものを壊されたら。奪われたら。どう対処するのでしょうか。
復讐に燃える人もいるかもしれません。

反社会というハンデとずっと闘ってきました。
いちいち人に嫌われ、馬鹿にされ続けて、いじめられてきましたが、悔しい思いをして泣いてきました。
誰かと分かち合えないものでしたから、一人で考えるよりなかったのです。
助けてほしいという言葉を言ったとしても、助けるのは自分しかいなかったのです。

もし、僕の精神力が弱かったら負けてしまっていたかもしれません。
心を感じようとしなかったかもしれません。
そして、家族が居なかったら、支援の手が無かったら、僕は孤立し、大暴走をしていたかもしれません。
どれが無くても反社会の人には、大きなダメージとなってしまうのです。
まるっきり一人では克服は出来ないと思います。

そして、自分と他者を認めるということを、まずは第一にやらなくてはいけなかったのです。
普通は、赤ちゃんのころに母親を認めるでしょう。
しかし、僕にはそれすら出来なかったのです。
最初の一歩からズレているのですから、親子の愛が、親子であれば、自動的に生まれるわけがなかったのです。

僕は、母親をフルネームで呼び、人としか認識していませんでした。
そこに、母親、父親、妹がくっつくなどまったく理解していませんでした。
それを恐ろしいなどと思わずに、そういう特性もあるのだということです。
また、認識していませんから、ただの他者ですから、酷いことも後先構わず平気でします。

お兄ちゃんなのに、と言われても理解出来ません。
容赦なく怪我をさせてしまいます。
妹には消えない傷が何か所かあります。
僕が敵意を剥き出しにした結果です。
捻挫もしょっちゅうでした。
罪の意識が無いので謝りません。
そこに居たのが悪いとなってしまうのです。
母はそれを聞いて驚いたことでしょう。

母は、僕の暴れん坊ぶり、冷酷さもわかっていました。
僕の様子をじっと見て、親子の関係を一からやり直そうと思ったそうです。
今までの愛情もなにも、全て振り出しでも良いから、心を育てなくてはいけないということです。
まるっきり裸状態の赤ん坊よりも酷い僕は、育て甲斐がある、と言ってました。

猫をいじめるなんて話も聞きますが、僕は、母が猫を拾ってきたときに、命がそこにあると感じました。
そしてそれは僕の手でどうにでもなると思いました。
母は、僕に猫を見せ触れさせました。僕は聞きました。
「こんな汚いやつ放っておけよ。それに、首ちょっと絞めたら死にそうだね。」
と笑いました。

すると、母は
「そうね、すぐに死んじゃうわね。でも、今そうすることで、快楽を得るのと、育ててみて快楽を得るのと、どっちが良いのか、あなたはわかるかしら?」
僕は、わからないと言いました。
母は、
「そうでしょう、だったら、一度育ててみたらいかがかしら?わかってからでも遅くはないわ。」

ホウホウなるほどと僕は思いました。
そうだ、やって見なくてはわからないではないか。
それに、猫は僕をやけに頼っていて可愛いやつ、全身を預けてくる。
母の提案は、僕を救ったと思います。
僕の考えを否定せずに受け止めつつ、気を変えさせたのです。
僕はお蔭で猫(弱者)への攻撃をしなくなりました。

もちろん、今まで猫に攻撃していたわけではありません。
遭遇したことが無かったからです。
しかし、小さい子が苦手で、敵意を感じていました。
それを、この猫を育てていくことで、僕は経過を見ることが出来たのです。
生かせておくと、どれだけの恩恵があるのか、やっと理解したとも言えます。

悲しいかわいそうだから、殺しちゃ駄目ってのもわかりません。
自分は殺されたくはありませんが、殺したいわけでもありません。
ただ興味があるだけで、好奇心だけなのです。
しかし、そこに命があって、ただの物体ではなく、大きな恩恵があるのなら、僕は好奇心を引っ込めることだって出来るのです。

そうやって、命拾い?した猫は大きくなり、殺すどころか、いとおしくてたまりません。
僕は母の提案通り非常に可愛がり育ててみましたが、その先にはこんなに幸せなことがあったのです。
それは、経験しないと、身に付かないものだと僕は解釈しています。
他の猫だって、可愛がっており友達が増えました。

時には、猫は自由奔放ですから、僕の言うことも聞かずに悪さをすることだってあります。
僕の大切なものだって壊したりします。
でも物体と命を分けて考えられるようになったのです。
僕にとっては目覚ましい進歩だと思っています。
最初からわかっているはずのことがインストールされていなかったのですから。

反社会と診断をされた当時より正しい療育をされ、今はみなさん定型の方とも同じように命が認識できるようになりました。
まだ、人が死んでも悲しさはわかりませんが、社会に生きていける程度のものさえ持っていればいいのではないかと思っています。
では、絶対にもう暴走しないのでしょうか?

僕は、もう暴走はしないと自信を持っています。
認識が遅れましたが、もう目の前の真実として命があることがわかったからです。
事件を起こしたり猟奇的な犯罪を犯す人は、反社会でもいるようですが、正しい認識をさせる機会を失ったか、または、タイミングを逃したせいではないかと思うのです。

今後も、僕のような特性を持つ子や人が居るでしょう。
もし、その人が自分勝手だったり、ルールを守らず、人に攻撃的で、罪の認識がないとしたら、残念なことに上手にその人を助けてあげれる、または、ヒントをあげれる人が周りに居なかったせいだと思います。
生まれながらに悪人はいないのですから。

家族にだけ、責任を押し付けるのも無理でしょう。
今後は、社会の皆で特性を理解し、早い段階で手を打てるようになるといいなと思います。
僕は、生まれてきて良かったと思っています。
こうやって体験や感覚をお話し出来るだけでも、意味があるのだと、最近は強く思います。
いくら馬鹿にされても良いから。

そうして、社会は歴史を重ねて、人を育てていくのだと思います。
イレギュラーな人を排除するだけではなく、受け止め対応し、しっかりと正しく育てることは、良い勉強にもなります。
今は文明が進んでいますが、肝心の人は進化しないのでは話になりませんから、僕は少しでも力になりたいと思っています。

今は、障害者だけでなく、とても辛い人、薬で一生懸命抑えている人、たくさんの人が苦しんでいます。
未来はそういう人たちだって、人生を楽しめ学校で勉強出来て、自己否定をさせないような世の中にしたいですね。
綺麗ごとだけではなく、本気で理解しあい支えあえれるからこそ人は存在していると思います。

反社会だからこそ行きついたものかもしれませんが、ハンデが無い人にとって当たり前のあたたかい感情を何故使わない人がいるのか理解に苦しみます。
自分と同じじゃなくても、人と違ってもプライドや意地を捨てて、向き合ってみると良いですね。
新しい世界や感覚を味わえると思います。

長くなりました終