発達障害なう

ツイッターで、投稿したものをコピーしてあります。

2015年06月

【ご注意】このブログ(ツイッター含む)の文章の内容は、僕が障害を乗り越える過程です。現在進行形ではありますので、人によっては不快に思ったり、障害当事者の方は、フラッシュバックを起こす危険性もあります。文章で生々しく当時のことを再現しておりますので、閲覧される場合はじゅうぶんご配慮の上、自己責任でお読みください。また、自傷などは、一切僕はしておりません。
また、このブログに書いてあることは、あくまで、一障害者の発言であり、専門家の意見ではありません。僕の発言だけを鵜呑みにすれば、危険をともなうことになりかねません。そして、僕の文章は、全てを網羅するものでもなんでもありません。そして、発言内容を他者に押し付けるつもりもございません。その点、ご留意の上、お読みくださると幸いです。
【自己紹介】ADHD アスペルガー症候群 強迫性障害 反社会性人格障害 10才で診断。双極性障害は19才で診断。 小1からの出来事をツイートしています。発達障害関連無言フォローします。愛の手帳4(療育手帳B2)障害者手帳1級取得。精神年齢14才。亡母がアスペルガー・ADHD、現在21才。フリープログラマー♂ 2015年6月9日スタート

母流のおもてなし

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さっき母がやらかしていて、僕はじっとそれを見ていましたが、
笑いそうになったというか気の毒というか、そんな事がありました。
今日は、母には、自分の支援をしてくださる方々との会議があり、
今後の支援や現在の報告などをする予定だったそうです。

母は、外からお客様が来るときは、茶菓子を出すものだ、飲み物を出すものだ、と強く思い込んでいます。
何人来るのか、把握は出来ないので、多めに用意しておくそうです。
今日は、暑いからアイスコーヒーと冷たいお茶にしようと、朝から張り切って準備していました。
そして、迎えた午後1時です。

迎えた母は、人数の多さに面食らってしまっていました。
母の予定では、多くても3人、だったのですが、なんと4人だったようです。
自分を入れると5人になります。
それでも、なんとかしようと、部屋に通し、ガタガタとお茶の準備を先にしますが、ちっともうまく出来ないようでした。

出来ているはずのお茶は、まだ透明でおそらく肝心のお茶パックを入れ忘れたのでしょう。
アーと叫んでいましたし。
お客様の部屋からは、
「お母さんどうぞ、お構いなくー!」
と支援の方々の声が聞こえてきますが母はもう聞こえていません。
アイスコーヒーにしようとコップをガチャガチャやっていました。

頼みの綱のアイスコーヒーは、人数分たりず氷でなんとかかさを増やそうとして、冷凍庫を開けますが、こういうときに限りひとつもありません。
「うわ、ない!」
と言いながら、慌てて水を補充していましたが、何も今やっても出来ないだろうにと思います。
すると母は、決意したように財布を手に持ちました。

「ちょっと買ってくる!」
と言い、お客様を放置して、外に飛び出してしまいました。
「え、どこに?」
と僕は聞ましたが、既に母は全速力で走って行き車のエンジン音が響いていました。
母は衝動的に行動してしまうので、すぐこうなってしまいます。
矢のようです。
お客様は母が出かけた事に気がついたようでした。

僕がお客様のお相手をするわけにもいかず、身を潜めていると母は、15分くらいで戻ってきました。
買い物に時間のかかる母にしては上出来です。きっとコンビニに行ったのでしょう。
「よかったあったあった。」
と手にしていたものは、でっかい氷。
いや何故氷。
行くならアイスコーヒー買ってくるでしょうに。

このように、母は、寸前の困りごとしか頭になく、全体を上手に見れない傾向があります。
結局、お客様に
「すみません、ちょっとずつになっちゃいました!」
とか言って、大量の氷とともにアイスコーヒーを出して居ました。
既に疲れたようで、一人でお客様用のお菓子をムシャムシャほう張っていました。


 返信より

しかも、板のような氷買ってきましたよ。
キッチンで、これどうやって割ろうかと悩んでいましたから。
氷屋さんかよってからかいましたけど。
仕方なく、キリで割ろうとして、僕は悲鳴をあげて逃げましたよ。
僕もね、まさか、氷買ってくるとはね。
思いつかなかったですね。
当然、アイスコーヒーを求めに走ったんじゃないかと。
まるで、ブランディーのようになったアイスコーヒーを出していましたよ笑

ガッガッってね。
そうしながら、昔は氷屋さんは大変だったねぇ!とかいいながら。
それでも、母がやり遂げないと落ち着いて座れないのを支援の方々は、知っていまして、様子見てくれていたんですね。
ブランディー並みのアイスコーヒーも、きっと美味しかったのではないかと思われます。

母はね、終始こんな感じですよ。
ドタバタ喜劇みたい。
結局、お客様もてなすには程遠いですよ。
本人は、必死ですけどもね。

さっきまで、ふーふー言って、氷を割ったのを今度は、何故か馬を作るってなって、削っていましたからね。
でも、足が途中で折れて、
あーあ。とか言ってましたよ。子供みたいですよ。

どなたか、注意してくださると有難いですよね。
今日は妹が居なかったので、母は暴走していましたからね。

氷→札幌→氷祭り→作ってみたかっただそうです。
一応予定だとペガサスにするつもりだったようですよ。
 iPadで、ペガサスのイラスト検索していましたから。
衝動性って、恐ろしいですよね。

でも、あの氷の板を嬉しそうに満面の笑みで、とったどーみたいに、掲げてきた母を見ると、僕はなんか笑っちゃいましたけどね。

障害の告知

僕が障害を告知されたのは小学校六年生に上がった時でした。
その前年に障害があるとわかってはいたが、医師は本人への告知はタイミングを見ましょうと母に言ったそうだ。
母は、僕には言えないので、こっそり発達障害の本を読んで、僕と照らし合わせていたそうだ。自分も近いとも感じていたようだが。


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僕は、小学校五年生の時はとても不安定だったので、なかなか告知はされなかった。
母は、首まで出かかった時もある、と言っていたが、ぐっとこらえていたそうだ。
六年生に上がる寸前に、医師が僕の様子を聞き、そろそろいいですよ、とゴーサインを出した。
その病院の帰り道に僕は母から聞いたのだ。

僕の通っていた大病院は、毎日たくさんの人が来院する。
僕は人ごみが大の苦手であり、とても疲れる。
人はたくさん、ガヤガヤしている、子供だって走り回っている、院内アナウンスは常に鳴っているし、行くたびに僕は披露してヘトヘトだった。
人に顔を見られないようにフードで隠しながら必死だった。

しかしいつものお楽しみがあった。
それは、マクドナルドに帰りに寄れることである。
外出しない僕にとってたまに食べる「外の味」は、大好きだった。
小さい頃に、ハッピーセットをよく母に食べさせてもらったせいか、その時のことが蘇る。
僕は、いつもハッピーセットだけは、おとなしく食べていたのだ。

母は、僕に告知する場所をマクドナルドに決めたのだろう。
僕が一番ご機嫌な時に言ってしまえということだ。
注文してトレーにハンバーガーを乗せて僕はウキウキしながら、席に向かった。
しかしいつもすぐ席に座らずいったんアルコールで拭いてから座る。
忘れると外食時は立ったままになってしまうのだ。

僕は、照り焼きハンバーガーに食らいつきながら、母にあれこれ話しかけた。
その当時は、もっぱら光の話ばかり。
光の速さって凄いよね。
こんな感じヒュンと手を伸ばして説明する。
相対性理論にもハマっており、困り顔の母に一生懸命一方的にまくしたてていた。
僕が、ジュースを飲んでいると母は言った。

さっき、病院に行ったけれど、なぜみらいは病院に行くか知ってる?
僕は、母の突拍子もない質問にがっかりし知らないと言った。
母は続けた。
「そうだよね、昨年から様々なテストをしたりしてね。」
僕は、ポテトで「ドナルド」と文字を作りながら、うんと言った。
みらいは、障害があるってわかったのよ。

僕は、へぇと言った。何の?と聞いた。
母は広汎性発達障害と言った。僕はなんだそれと言った。
そこから、母の説明がはじまった。
アスペルガーのこと、ADHDのこと、強迫性障害のこと、反社会性人格障害のこと。
僕はひとつずつ聞きながら、うんと言った。
そうしながら、手でまたポテトをいじくった。

母が説明し終わり僕に言った。
「みらいにちゃんとお話しする機会を待っていたのよ。最近の様子を見て、先生とそろそろいいねってことになってね。」
と言い
「話したから聞くけどどう思った?」
僕は、ジュースをズーズー吸いながら、何にもと言って、僕もね、皆と違うなとは思っていたから。
と言った。

母は、そっかと言って窓の外を見ていた。
僕は頭の中でぐるぐる考えていた。
障害ということは理解した。そこで肝心なことを聞いた。
「あのさ、これって治るの?」
母は、こっちを向いて
「いいえ、治らないけど、特性を上手に活かすことは出来るわ。でも、普通の人よりはハンデはあるということなの。」

ホウ。
と僕は言って、なるほどね。
と言った。
母は、
「そう、だからね、今はまずは、中学までは、ゆっくりして、ハンデを乗り越えるための充電をするときなのよ。慌てちゃ駄目なのよ、ノンビリでちょうど良いんだから。」
と言って、ニッコリした。
僕は、文字になったポテトを食べながら、頷いた。

やれやれやっと肩の荷が下りたと言わんばかりに母は笑って、
「でも、ママは不思議なみらいが大好きなのよ、これ他の子に内緒よ。一番可愛いと思っているのよ。だから、自分について困っても、ママが好きな僕だしな、って思って頂戴ね。」
と言って、人差し指を口に当てて、秘密ね。
と言った。

僕はその時、物凄く嬉しくなった。
兄妹の誰よりも僕は、可愛がられていると思ったら優越感だ。
告知よりもそっちのほうが大きい事件だ。
母は
「だからね、今日は内緒のデートね。」
と言って僕を見た。
母は兄妹誰にだって
「あなたが一番よ!」
って言っているのだろうが、僕は本気にしようとしたのだった。

告知は、僕にとって大したことではなかった。
流石に小学生の僕でもわからないわけがない。
もっと小さい頃から、
「人と違う。」
と感じていたのだから、その答え合わせが出来ただけだった。
そして、悲しいとも残念とも何も感じなかった。
むしろ、そう言われて少しホッとしたのを覚えている。

中学時代6

僕は中学三年の冬になった。
僕は猫と奮闘しながら、高校のことを考えるようになった。
しかし、学校をロクに言っていないし、勉強もしていない。
文字も書けないとなると、養護学校高等部しか選択肢が無かった。
僕は、担任の先生と一緒に養護学校に面接に行ったりして過ごした。

養護学校では、作業をしたり社会に出る勉強が主だと言う。
僕はわからなかったが、そういうものなんだと思った。
母は、僕が養護学校に進めることを喜んだ。頑張って通おうね、と言った。
まだ、外出することは出来なかったがきっと行けるかもしれないと思うようにした。
不安になると猫を抱きしめた。

僕は、中学三年の二学期から、少しずつ母付添で学校に通うことになった。
多くて週に1回、そんな日が続いた。
学校では僕は数学のプリントをやったが、難しすぎてわからなかった。
習っていないのでわかるわけもなく、僕は詰まらなかった。
それに、国語なんてもっと難しい。文字が書けなかったのだ。

これはまずいと、先生はドリルを持ってきたがそれも難しい。
そこで、母が手作りで数学の問題を作ってくれるようになった。
僕は、計算は得意で、式を飛ばして答えだけ書いてしまう。
ひっ算なども頭の中でやってしまうからだ。
すると、答えは△となってしまい、納得できなかった。

問題が文章で書いてあると、これがさっぱり意味がわからない。
何を求めたらいいのか理解出来ずに答えが書けない。
だが、計算となると、ぱっぱと答える。
何度も式を書けと言われたが、意味がない答えはわかった、と繰り返して僕は書かなかった。
困りましたね、と先生は言うが僕は困らなかった。

国語と数学をやったが、国語はまるで駄目で、文章の感想を書けと言われてもまったくわからない。
漢字はだいぶネットで調べて覚えてきたが、書くことが出来なかった。
僕は漢字をパーツにしか見えなくて、全体を組み立てることが出来なかった。
サンズイが反対にくっついたり、左右反対が多かった。

鉛筆を上手に持つことも出来ない。
力を入れすぎて鉛筆が折れてしまう。
それならばとシャープペンを持って行ったが、ポキポキと芯を折ってしまう。
うまく筆圧を計算出来ず、母の作ったプリントが破れてばかりいた。
うまくいかないのでイライラしながら消しゴムで消すが、紙を盛大に破ってしまった。

そんなことをしながら、冬になっていたので、僕は腐っていた。
勉強をしたくても、書くことが出来ない。
どうしたって、シャープペンは折れてしまうし、紙は破れるし、字は書けない。
僕にとっては、不思議だった。
ネットではちゃんと話して文字を打ち込んでいるのに何故か書けないのだ。

母は学校に行く前に必ず勉強ファイルを作り、手作りの問題を作成して僕に持たせた。
それを夕方学校で週に一度やり、一時間だけ出席した。
僕が学校以外でも出来るようにと、たくさんプリントを作った。
僕のレベルに合わせて作っていくのだ。
プリントには必ず解説が入れこんであり、なかなか親切だった。

教科書とにらめっこして、一生懸命問題を作る母を見ながら、僕はプログラムの勉強もした。
国語はもうネットで文字が打てればいいやと諦めてしまった。
数学だけやった。
冬が終わりいよいよ僕の卒業式が近づいた。
先生は、是非参加してほしいと言った。
僕は小学校でも卒業式だけは出ていたので頷いた。

僕が中学三年になって、卒業式を迎えるまでにいろいろなことがあった。
いろいろ小学校時代のことなどツイッターに書いてきたが、結構鮮明に覚えているものだ。
あの時の先生の顔だとかセリフだとか。
特別に記憶力が良いわけではないだろうが、理解が得られない時などのことはしっかり記憶している。

中学三年の時の、支援学級の担任は、僕結構好きだった。
サバサバした若い先生で、屈託がない感じ。
裏表もなんにもありませんって印象だった。
いつも、僕が母手作りのプリント持参で登校(車でだが)すると、
「おう、おはよう!」
と元気よく迎えてくれた。
特に怒りもしないし、叱らない先生だ。

ある日、僕は先生との約束の日に寝坊をしてしまい学校に行かなかった。
母は起こしに来たが起きれなかった。
前日にネトゲを深夜までやっていたせいで、時間のペースが狂ってしまっていた。
ネトゲでは、相変わらず僕はマスターを務めていたが、どんどん大きくなってくる組織に面倒なことも増えていた。

僕がすっぽかした翌日、母に担任から連絡があったそうだ。
次の予定を立てるためだ。翌火曜日にとなったそうだが、僕は上の空で聞いていた。
頭の中がマスター業と、プログラムの勉強でいっぱいだったからだ。
その上学校なんて行っている暇がない。
それでも、母は火曜日に行くからねと念を押した。

そして、翌火曜日。僕が登校する時間は夕方の16時だ。
そして17時まで勉強をした。
だいたい、毎週一回だけ。それでも結構大変なことだった。
何故16時なのかと言えば、その時間なら部活動の時間になっているから、担任が手が空くよということだった。
しかし、外ではわあわあと人の声がしていた。

無事に起床出来た僕は、母の車で学校の裏門から入る。
すると、元気の良い声で、野球部やサッカー部が、掛け声をあげながら練習をしている。
僕は耳に手をあててなるべく聞こえないようにしてから、注意深く車を出た。
隠密のように、壁に張り付き辺りを伺ってから決意して歩き出す。

ピタッと張り付いてキョロキョロする。
ヨシ誰も来ない大丈夫だ。
まるでFPSのクリアリングみたいに、柱から柱にタタタッーと走る。
と、そこで予想外の出来事が発生する。
渡り廊下の向こうから、人がこっちに向かって歩いてきたのだ。
これはマズイ!
と僕は隠れる場所を探すが周囲にはなにもない。

しまった一生の不覚だ。
どうしよう。
慌てる僕は、後ろから付いてくるはずの母を目で探すが、何をしているのか、まだ追いついていなかった。
僕は、いつもダッシュで外壁際を走るので先に離れすぎてしまった。
策を考えたが、隠れるところなんてない。
どんどん声は近づいてくる。
うわ、どうしよう。

僕は、観念することにした。
そうだ、さりげなく、部活動をやっている人みたいに歩いていればいい。
隠れたら余計に不自然だ。
覚悟を決めて歩きはじめる。
渡り廊下の向こうからは、女性の声がした。
この期に及んで苦手な女性が来るとは僕はついてない。
そうだ、担任がひょっこり来てくれないだろうか。

先週、すっぽかしたんだ。窓から担任が顔を出しても良いだろう。
そうすれば、僕はちょっとホッとするのに。
教室まであと30歩。首を伸ばして覗いてみるが担任が外に居る気配はない。
今日に限って僕を迎えないなんて、なんでもかんでもついていない。
腹を決め歩き出す。
声はもう曲がり角の向こう側だ。

あぁ、もう最悪だ。
人に会いたくないのに。
とにかく顔を逸らしていよう。
きゃあきゃあと甲高い声がして、女性が3人生徒だった。
なんでもう放課後なのに、渡り廊下なんて歩いているんだよ。
おかしいだろうと思いながら歩いているとちょうど渡り廊下と僕の進路が交差しているところに差し掛かった。

女性の声が止まった。
と、すぐに聞き覚えのある声で
「あれ、みらい。」
「どうしてここにいるの?」
おいおい何故名前を知っている、と仕方なく顔を向けると、その声の主は妹だった。
妹は、友人二人と何かを抱えて歩いていた。
びっくりしたような目で僕を見る三人を前に、僕は茫然とするしかなかった。

そうだ、すっかり忘れていたが、妹もこの学校の生徒だった。
二年生だ。
妹の友人二人は、初めて見るであろう男の存在に驚いたのか、目をパチクリしていた。
「何をしているの?一人で来たの?」
妹は質問をいっぱいした。
空気を読めよ、妹よ。
僕が、生まれたての小鹿状態になっているのがわからないのか。

当然何も答えられるわけもなく、完全に凍りつく僕。
妹の友人たちは、
「ねえねえ誰なの?」
などと妹に聞いている。
他人だと言うのだ。
お願いそうして。
期待を裏切って妹は
「お兄ちゃんなの!」
と満面の笑みで答える。
あぁ、終わった。
個人情報じゃないか。
と思いながらも、白目でその場に立っていた。

母は、ようやく僕に辿り着き、あらまあ一緒にいたのね、と呑気に言っている。
僕はその隙をついて、進行方向に歩き出した。
すると、やっと担任が窓から顔を出し、おはようと叫んでいた。
僕は、汗びっしょりで、ようやく入った教室でぜえぜえ肩から息をしていた。
担任は、丸椅子を用意してくれた。

後ろから母が来て、手作りプリントを担任に渡す。
僕は、さっきの遭遇で動揺してしまい、もはや勉強どころではない。
「いや、ちょっと待って。今日はもう無理だ。」
と僕は宣言し、カバンを下におろして机に顔を突っ伏した。
担任は、どうした?と聞いてきたが、そのうち放っておいてくれた。

週に一度、一時間だけ勉強しに登校する貴重な時間だが、僕は体調を崩してしまい、その日は何も出来なかった。
おまけに鼻血まで出してしまい、お腹も痛くなるし、早々と母が呼ばれ帰宅した。
いつも母は、登校中何があってもいいように、学校の駐車場で待機していたのだ。
まさか妹に学校で会うとは。

僕にとって、家族であっても、外の想定していない場所で会ったりすると普通に対応出来ない。
それがたとえ妹であっても、違う感じがして話せなくなるし、他人のふりをしてほしくなる。
おまけに、友人まで一緒だったのだから余計だ。
僕にはその当時には、どうしても出来ずに余所余所しいのだった。

妹にとっては、珍しい幽霊生徒の僕とバッタリ会うなんて、奇跡に近いことなのだろう。
喜んで友人に紹介したくもなったのだ。
しかし僕はロクに話せないのだから、おかしく思われたんじゃないかと気に病んだ。
それからは、妹にも会わないか更なるクリアリングをし、徹底して人に会わないように登校した。

そんな風に、中学の外壁を進行する方法にも完璧になってきた頃、担任が、僕に養護学校の話をしてきた。
僕は、ちょっと前に養護学校の高等部に書類の提出をし、進学する手続きを済ませたのだった。
しかし、合格の発表はまだ先だったのだ。
ちゃんと身体のリズムを整えておくんだぞ、と言っていた。

母は、養護学校に僕が行くことを喜んでいた。
普通の高校には絶対に行けないし、養護学校だったら社会的なことも練習したりして学べるからね、と言っていた。
僕は、養護学校で何をするのかよくわかってはいなかったが、このまま中学を卒業して、ずっと家に居るのもまずいかなとは思っていた。

世間では、ニートという言葉が流行り、僕もネトゲばかりやっていると、
「お前ニートだろう。」
などと、言われることがあった。
そのたびに否定してきたが、中学を卒業して、どこも所属しないとなると、ニートになってしまう。
それだけは、避けたいと思った。
なんとなくニートになりたくなかったのだ。

母は、
「みらいは、障害もあるのだし、何も無理して頑張らなくてもニートって言わないんだから大丈夫よ。」
と言っていたが、僕にとってはそれは信じられなかった。
働いたら負けなんて言葉も、ネトゲではよく聞くフレーズだ。
僕の仲間にだって、働いてなくてネトゲばかりしている人もたくさんいた。

ニートの仲間はどうやって生計を立てているのかを知ったのは、本人の口からだった。
働くのが嫌で、両親と一緒に暮らし、いろいろ支払もしてもらっているのだそうで、食事も上げ膳据え膳だ。
僕は、特に何を言えばいいのかわからずに、ホウホウと聞いていた。
そこで、余計なことを言うつもりもなかった。

働くなんて馬鹿馬鹿しい。
時間は全部俺のもの。
生活保護の方が働くよりもたくさんお金をもらえる。
そういう言葉がよくネットでは飛び交っていた。
特に身体の障害も無く、精神はなんともなくても、世の中はワーキングプアだからねと働くのをやめてしまうものも居た。
若い人も中年も働かない人が居た。

僕はそういう人たちとネトゲで話しながら、チームを強くしてきたが、どうしても働かないということが理解出来ずにいた。
働けないのではなく、働かないのだから、ズルをしているのか、人間関係が面倒なのか、様々な理由の人がいた。
僕はまだ中学生だったし何も言われなかったが、心配になってきたのだ。

もし僕が養護学校に行って、少しでも社会性のスキルを身に付けたら、もしかしたら働けるのかもしれない。
これはとにかく養護学校に行かないと大変なことになってしまうと思った。
すると担任が
「じゃあ電車に乗る練習をしようか。」
と誘ってきた。
僕が通うはずの養護学校までは、電車で行くと言うのだ。

僕は即座に、担任の言葉に承諾をした。
「やるやる。電車に乗らなくっちゃ。」
よし僕だって電車くらい一人で乗れるに決まっている。
しかし、それにはルールを覚えたり、あれこれやらなきゃいけないことがあるはずだ。
僕はこれから、学校で勉強をする代わりに、電車に乗る練習を担任とすることになった。

電車はひっきりなしに動いている。
数分間隔で人を運び、吐き出しては呑み込んでいる。
人ごみが苦手な僕、人の波の乗れない僕、こんな僕でも大丈夫なのだろうか、と不安になったが、何しろ担任と一緒なのだ。
まったく問題ないはず、と、当日は意気揚々と学校に行った。
母は、僕にSuicaを持たせた。

何度も確認はした。Suicaの使い方だって知っている。
改札にカードをあてればいいだけ。そうすると改札がパカッと開くんだから。世の中便利になったものだ。
これでどこにでも行けるんだ。
帰りも同じようにすること。
脳内でシュミレーションをして、僕はドキドキしながら駅に担任と行った。

駅は、言い表しようがないくらいの人また人。よくまぁ、これだけ人がいる。
しかし、僕は教わった。
カボチャだあれは、じゃがいもだ、もしかしたら、キャベツだ。そう思うんだ。
目玉がギョロッとこっちを見てもあれは野菜だから。
野菜は僕を認識できない。
そう思うんだ。
うまくやろううまく出来る。

担任は、僕のすぐ隣にピッタリと張り付き、僕の緊張を紛らわせようと、ゆっくり歩いていた。
僕は持たせてくれたカード入れを何度も手で感触を確かめ、よしあるなこれでよし、と思っていた。
どんどん駅の中に入り、人はたくさんどっと溢れてくる。
僕は、キャベツキャベツと呪文を唱えながら歩いていた。

ここからあそこに行ってどうのこうのと、担任が線路図を指さして経路の説明をする。
もちろん僕の耳には届いていない。
こんな雑踏では、人の声なんて僕には聞き取れない。
ガヤガヤどんどん大きくなる音や声に、僕は我慢した。
そしていよいよ改札口が近づいてきた。
人は、川の流れのようになっている。

改札にどっと集中し、スムーズに一人ずつ流れては、また拡散されていく。
カードをかざして、ピンポーンと鳴って、どうぞ電車にお乗りくださいの合図が出る。
うまくやろう。
僕は、皆と同じように、カードからわざわざSuicaを出して手に持った。
そして、僕の番だ。
改札にかざそうとタッチする。

と、ここから僕、ほとんど真っ白になった。
結局僕はなぜか通れずブッブーッという感じで赤くなってしまい、固まってしまう。
人の波は、この通りだけ詰まってしまい、担任が再度やろうと僕の手からカードを取る。
僕は、急に目が覚める。あ、野菜じゃない。
人がいっぱいいる。そうなるともう駄目だった。

そう、我に返る感じ。
今までは、夢を見ていた。
颯爽と駅を歩く僕。
まるで学生が学校に通うみたいに、買い物を楽しむみたいに。
でも、僕は夢から覚めてしまった。
急に目に入ってきたのは、僕を見る人。
目玉はやはり人間のものだった。
僕は、担任の腕にしがみつき、恐怖に怯えてしまった。
帰ろう帰ろう。

担任は、僕の様子を察したのか、
「帰ろうか、今日はここまでだ。」
と言い、僕の腕を掴んで足早に歩き始めた。
僕は、フードを被り、物凄く隠れたい衝動を我慢して歩いた。
学校に戻ると、少しホッとした。
母が迎えに来てくれ、担任から改札での出来事を聞いている。
僕の電車デビューは、やれなかった。

ゆっくりでいいのよ。
失敗した僕をなぐさめるように、母は言った。
僕は返事したが二度とやれる気がしなかった。
これでは大変だ。僕は、この先が不安になったが、まだ諦めたくなかった。
次はうまくやろうと心に決めていた。

☆養護学校高等部(母がなぜか養護学校と連呼していた)=特別支援学校高等部


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中学時代5

中学三年の秋に戻ろう。
僕は高校をどうするのか、児童相談所や中学の支援学級の先生と母は話し合ったりしていた。
僕は呑気に構えていたし、年齢的には行った方が良いだろうとは思っていたが、自分がしたくない勉強までする気が無かった。
中学には相変わらず登校できずネットでの生活が主になっていた。

母は、僕が食事をしにキッチンに来ると、
おはようなのかしら、おやすみなのかしらと聞いてきた。
僕の生活リズムはめちゃくちゃで24時間では動いてなかった。
病院の先生曰く、26時間くらいで動いているのでないかとのことだった。
この頃に睡眠リズム障害と言われてしまった。

中学時代~高校時代の睡眠時間は、物凄く長かった。
一日に12時間~14時間は眠り続ける。
今は、落ち着いてきたと思う。酷い時になると、24時間眠り続けることもよくあった。
起きると一日を飛び越しているので驚く。
よく飲まず食わずでトイレにも行かずにこんこんと寝ていられると思う。

また、悪夢も多かった。
毎日悪夢のオンパレード。
多いのが追いかけられる夢で、次が害虫の夢。
不快な夢を延々と見るので、寝ていても起きているのと変わらないくらい疲れることもあった。
僕は、汗をぐっしょりかいて目が覚めることが多い。
鳥がさえずり爽やかな朝なんて経験したことが無いのだ。

睡眠については、僕にもコントロールのしようがない。
寝てしまうとまったく起きれず途中で起きることもなかった。
母は僕にお健やかにお眠りですねとよく言ったものだ。
病院の先生は、睡眠について僕は日頃からストレスが多いのでたくさんの睡眠が必要なのだと解説してくれた。
その代り一日は短かった。

普通はそこまで眠れませんから。
と病院の先生は仰った。
確かに普通は腹が減るだろう。
僕の睡眠最高記録は、36時間である。
よく寝ているだけで身体が悪いわけでもない。
そんな風だから通常の生活に身体が合わせられなかった。
また、毎日生活がズレていくので計画を立てるにも大変だった。

僕は地球に身体がうまく適応していないのではないかという考えが頭をよぎった。
人間の大切な睡眠が調節出来ないのは致命傷だと思う。
社会に出たら尚更だ。
もし、会社員になって寝すぎてしまったらすぐにクビになってしまうだろうし、僕は一日24時間で動けないのだから勤務時間が減ってしまうだろう。

睡眠は、僕にとってはどうしても減らせないものだ。
それを朝には起きてくださいと言われても、どんなに頑張っても不可能だと思った。
よく太陽の光を浴びると体内スイッチがリセットされると言う。
僕も何度もやってみたが、眩しいだけでリセットはしない。
体内時計がぶっ壊れているのだと思う。

そういうこともあって僕はずっとリズムが狂いっぱなし。
しかし、身体はどこも悪くはない。
しかも最悪なことに起きている時間が短いこともある。
あれだけ寝ておいて8時間起きたらまた14時間寝てしまう。
ちっとも太れない。
3食食べている時間が無かった。
寝てばかりなので身長も伸びてしまった。

目が覚めると、まずは起きたことを認識する時間が必要だ。
ベッドの中でまず自分の身体を目で確認してみる。
どうやって動かすんだっけという感覚を取り戻すのに時間がかかる。
そして、おもむろに起き上がって再度身体を点検し、手足があるということを認識する。
そうしたらやっと椅子に座りボゥーとする。

飛び起きて即行動なんて芸当は僕には難しい。
たちまち手足がもつれて転んでしまう。
毎日毎日これは必ずやっている。
脳が身体を認識しないと動かせないのだ。
車だとすると、エンジンのかかりが遅くて、暖機運転が必要・点検も必要で、エンジンが温まったら、たちまち高速回転を始めてノンストップになるのだ。

僕は、脳が機能を開始しはじめるとすぐに思考が始まる。
昨日寝る前にやっていたことをすぐに継続して考え始めることが出来る。
鮮明に戻ってくるので、すぐに作業に取り掛かることが出来る。
目が覚めると、食事よりも先に思考する。
だいたい思考の気が済むと、やっと歯磨きをする気になったりする。

歯磨きをしたら、部屋に引っ込んでしまう。
口の中の違和感が消えるまで食事を取れないからだ。
そして再度思考に入り、起床してから3~4時間以上かけて食事をする気になってくる。
悲しいことに食事中も考えることを止めれない。
ずっとずっと考えてしまう。
機械的に食事を取りながら思考という有様だ。

食事も偏食だ。同じものを延々と食べても飽きない。
また、食感がネチョッとしたものは受け付けない。
玉ねぎ・ピーマン・トマト・レタス・ワカメ・ナス挙げたらきりがない。
マックに行くと必ず僕はハンバーガーを解体し始める。
玉ねぎを丁寧にどかして、ピクルスは撤去する。
母はその様子を気味悪がる。

肉は獣臭いのはまったく食べれない。
鶏肉は好きだと思う。
お米が大好きで、ご飯さえあれば、おかずは適当でも何とかなってしまう。
パンはパサパサしているので、口の違和感が苦手。
その代り調理パンなら食べれなくもない。
しっとりしていないと食べれない。
僕は要するに食感だけで判断しているのだ。

偏食のせいで給食は苦労した。
小学校4年までしか食べていないが口に出来ないこともあった。
いちいち素材が気になってしまい給食のメニューを見ないと信用できない。
食物アレルギーはないので勿体ないのだが、食感が優先するので仕方が無かった。
贅沢なお口なのね、と母は言い極力合わせてくれている。



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中学時代4

【中学三年生から~】

中学三年になって、僕はネットゲームのマスターとしての勉強をしていた。
たかが仮想空間と思うなかれ、人をまとめていくのは僕にとって問題が山積みなことばかりだった。
誰でも自分がこの人に付いて行こうと思うには根拠がある。
リアルで顔をあわせるわけではないから余計にはっきりせねばならない。

マスターとしての求められるのは、カリスマ性である。
強さ、人柄、問題解決能力、決断力、運営能力、情報力、人員配置、人員育成、営業力、企画もせねばならない。
人が不可欠で、それぞれの特性を見抜き、上手に配していかなくてはいけない。
また、自分の右腕になる強力な支援者も必要だった。

僕は、マスターとしてたくさんのスキルを身につけ強化していった。
自然に会社経営に近いことを練習していたのだ。
母も会社経営に走り回っていたのだが、その姿を見ながら吸収していった。
たまにうまく行かないことがあって困ると、解決の方法を相談したりした。
母は、的確なアドバイスをくれた。

強力な支援者には、僕の才能を買ってもらう必要がある。
力やお金で屈しさせても、他に良い条件があればすぐに裏切るだろう。
マスターは、尊敬されなくてはならなかった。
僕はノートを作り戦略を練り人を配した。
その姿を見せ、支援者を増やしていった。
冷たいばかりでも駄目だった。会議も盛んにした。

今までは、会話もままならなかった僕だが、この時期にかなりの会話を会得した。
コミュニケーションを積極的に取った。
僕は、将棋が大好きだ。
しかし、人を将棋の駒のように考えてはいけない。
駒でさえ、それぞれの特性を持つのだから、行きたいところへジャンプする。
そして何より人には心がある。

一時期、僕はなかなかアイテムをゲット出来ずに、イライラしていた。
母は、不満ばかり言って自信を無くす僕に、
「あなたは、運は無いけれど、実力があるわ。運では食べていけないけれど、実力があれば、必ずいつかは手に入れられるのよ。」
僕は、そうかもしれないな、と思い直して、前を向きなおした。

母は上手に人を活かす仕事をベースに会社を運営し始めていた。
僕はいちいちその経過を聞きたがった。
その奇策とも言えるプラン作成は僕を刺激した。
よく何も無いゼロからやるものだと質問すると、そうね、わたしには財産がある、それはね夢を持っているということなのよ。
へぇ、と僕はウキウキした。

普通の人なら、無名で軍資金ゼロで会社を始めようとは思わない。
頭がどうにかなったのではないかと思われるのがオチだ。
しかし、母はゼロだからこそやれる、という。
それは、マイナスではないからということと、失うものがないから挑めるのだということだった。
ハングリー精神を持てと常に言っていた。

わたしは人に夢を描かせるのよ。そしてそれを実現させる。
実現させるには、知識が必要だわ。
そしてちょっとした視点の切り替えと行動なのよ。
僕はホウホウと聞き入りノートに書き込む。
母も障害があるのだから、仕事を始めると家事も上手にオンオフをしていた。
そこから母の受付時間が決められたのだ。

母は家事受付時間を決めた。母営業時間と言っていた。
洗濯機、キッチン、お風呂、掃除機にまで営業時間が貼り付けてあった。
それ以外ではスイッチを入れないのだという。
まるで役所である。
お風呂は、年中入ってもいいが掃除時間は上記にある通りということらしい。
同居するもの同士のルールも決めた。

リビングは公共の場、個人の持ち物は持ち込まない。
持ち込む際は、立ち去る際に片付けること。
置きっ放しは忘れ物になり箱にインされ保管期間を過ぎると処分された。
本は、タグが付けられ管理された。引き出しも全てファイルで管理された。
セロハンテープが使いたければ棚5-2にあるということだ。

冷蔵庫も管理され記名式となった。
プリンを買ってくると各々サインするのだ。
妹と争奪戦をしなくても良くなるし、僕のプリンは安全に保管された。
おやつも全てそうだ。
洋服も管理され、全てジップロックに入れられた。
また、洋服の写真を全て撮りプリントアウトして、ジップロックに貼り付けられた。

母のアイデアは留まることを知らない。
家中管理してやるという意気込みは恐ろしい。
また一番なのは、視覚的に管理するという点だった。
洋服はぐちゃぐちゃにならないように、半袖は青い輪ゴムでくくり、長袖は黄色、七分袖は緑、ズボンも長さで色が同じようにする。
色の持つイメージを上手く利用した。

テレビは管理されリアルタイムでは災害時以外使用禁止となった。
ダラダラと見続けることは馬鹿馬鹿しいとのことと、必要な情報は他でも得られるとのことだ。
僕は音に弱いので助かった。
また、朝には必ずクラッシックが流された。
母曰く、ホテルの朝食をイメージだそうだ。
これで優雅になるのだそうだ。

食器も管理され、それぞれの食器は所定の洗い場に必ず置くこととなり、それをやらずにテーブルに置いたままだと、次の食事は出てこない。
僕と妹は競うようにルールを守り楽しんだ。
間違えるとお互い注意し合った。
家族とのイベントも、母は勝手にやるのでは無かった。
僕たちも一緒に考えて話し合った。

たとえば、旅行に行きましょう。
という企画と日程案を母が持ち込んでくる。
すると、皆で行き先、交通手段、見学地、宿泊施設を検討する。
それぞれ役割も分担した。
母は、ホテルの手配、見学地の調査で、妹は、持ち物の管理、僕は、交通手段の確認となった。
ほぼ決まりとなると、旅のしおり作成となる。

旅のしおりは、会議で決定した内容をパソコンで作成した。
旅の目標が掲げられ、日程はバスツアー並みに細かく明記された。
持ち物は、妹が全て報告し、3人で使うものには、担当が決められ書かれる。
僕は、交通手段混雑具合を調査し報告、日程とともに調整された。
そして災害時に避難する場所も入れた。

僕らは、家族として結束を深めていった。
それぞれのアイデアを盛り込んだ旅のしおりは完成しそれぞれに配られた。
母がピカピカな表紙を付けてくれ、小冊子のようだった。
僕達は、旅の前に何度もしおりを確認し、旅先に想いを馳せた。
そういえば、ご当地もの、お土産に至るまでしおりには書いてあった。

旅となると僕は注意を要する。
感覚過敏なところと強迫性である。
なるべく、刺激が少ないように配慮はされたが、知らない場所でのことなのでかなり緊張した。
旅をしながら、日程を確認しこなしていく。
目に付いたものはメモし、予定されていない行動はしない。
家族で離れないようにくっ付いて歩いた。

旅は見事に成功し、僕は計画の大切さと分担の意味を学んだ。
もちろん行き当たりばったりの旅も醍醐味があるだろうが、不測の事態に弱い僕には、配慮しなければ、パニックを起こしていただろう。
それから僕が旅行に参加する時には、必ずしおりが作成された。
楽しむためには、計画ありきだったのだ。

母は、家族での旅行やイベントには意味があると言う。
お金と時間をかけるのだからそこから学ばなくてはいけない。
学校の行事と同じだということだ。
そして、ただ子供を喜ばせることだけを考えるのでは無く、上手に刺激を取り入れて欲しいと言った。
これが生かせるお金の使い方なのよと自慢げに言った。

家では、母がいつも試行錯誤して、アイデアを考え出していた。
中には懲りすぎたり面倒で、続かないものもあった。
しかし、トライすることは経験に繋がり、失敗したことは肥やしになるのだから、次に向かうだけだと、母は言う。
障害の特性をうまく利用した家の中は、僕にも住みやすくなっていった。

僕は、社会のルールが理解出来なかったが、母の作るルールは、理解した。
そこに、守らせる意味本質があったからだ。
母家事受付時間は、母の時間活用のため必要であり休む時間も作り出せた。
物の管理は、物を大切に扱うことに繋がる。
何を求めるのかと言うことが、デカデカと書いてあるからだった。

秋になり、僕は本格的にプログラムの勉強をしゲームもした。
中学校には、母が連絡をマメにしていたようだった。
そろそろ療育手帳の再認定の時期が来るということで、僕は児童相談所に行った。
2時間弱をかけてテストをし、その場で判定がわかった。
僕は、ギリギリ知的障害ということだった。

こうやって文章を書いていると、知的障害なんて疑わしく思うだろう。
しかし、僕のテストの結果は極端だった。
0から140までの数値があるとしたら、僕はわかるところはずば抜けて130なのだが、ダメな部分は10とかになってしまう。
いまだに文字は鏡文字であり、漢字も書けない。

困るのは耳からの聴き取りだ。
僕は目の前に人が居て話していても、会話を聴き取れない。
話しかけられても、その言葉が音楽にしか聴こえないことがほとんどだ。
大抵聞き返し鸚鵡返しになってしまう。
「このジュースちょっと多すぎた。」が「とんかつをなるべく食べたいな。」
に謎変換する酷い物なのだ。

人が何かを言っていることはわかる。
音声が出ているのだから。
しかし、近くに居ても音程にしか聴こえない。
フンフンフフンみたいにしか聴こえず、まったくわからない。
僕は必死に、フンフンフフンと鸚鵡返しにし言葉を当てはめようとする。
日本語なのは、わかるが言葉として脳に入ってこないのだ。

母は知っているので、僕にはゆっくり言う。
そして、僕の注意が逸れないように、身体や指などを一切動かさないように話す。
僕は視界に何かが入ると、そっちに目が行ってしまい同時に、脳が言葉を聞き分けられないのだと思う。
これは、まったく改善せず、今でも苦しんでいる。
母も同じ特性があるという。

食事をしながら、会話は出来ない。
同時進行が処理できない。
レストランでもそうだ。
周囲に人や皿がカチャカチャ鳴ると、目の前の人の会話が聴き取れない。
ご飯も食べれなくなってしまう。
そこに居るだけで精一杯だからだ。
妹は、会話をしようとするのだが、ボクと母は聴き取れずに?となることが多い。

だいたいそこで人を怒らせてしまう。
ふざけているのかと言われるからだ。
そうじゃなくてもう一回お願いします、とお願いし耳に手を当て必死に集中しても聴き取れない。
さっきと同じに音楽になる。
僕は、ビックリする。
僕の脳はどうなっているのかと驚愕してしまうのである。
筆記が必須なのだ。

小学生の頃は、まだ聴き取れたような気がする。
中学生になって酷くなった。
それならば、と、電話にしてみると、直接耳に押し当てるとなんとか聴き取れる。
しかし、スピーカーにすると聴き取れない。
音楽は、流行りの曲もそうだ。歌詞は僕には聴き取れない。
全て曲と混ざってしまうのだ。

この曲は、悲しいわと言われても、曲調しかわからないので歌詞は知らないのだ。
そこで、調べて目で確認すると、やっとそう言っていたのか、とわかるのだ。
何事もそうなので、人と仕事でコミュニケーションを取るときには、全神経を集中させ聴きとるようにしている。
そして必ず確認をするようにする。

言葉の意味がわかっても、感情の部分は僕は理解が乏しい。
寂しいが理解出来ず、悲しいも切ないもよくわからない。
経験で聞いているだけで、僕には実はわかっていない。
こんな僕にドラマの深い意味がわかるわけも無いので、見ても映像しか伝わってこない。
それと、情報量が多すぎてパンクしてしまう。

妹はジブリが大好きだ。
僕にも一緒に観ようと言うが、15分で限界だ。
理解が出来なくて言葉も聴き取れない。
まずは最初の15分を繰り返して理解しなくては先に進まない。
映画を観るのも一苦労だ。その点、ドラゴンボールはわかりやすい。
視覚的なことが多いからだ。無声映画ならいいのかもしれない。

Mr.Beanは大好きだ。
視覚だけで楽しめる。
僕はよくあれを観て、母と大笑いしていた。チャップリンもそうだ。
音や言葉はいらないから、あんな風なドラマや映画があればいいなといつも思う。
そうして、僕は映画をたまに観るのだが刺激に気を付けて観ている。
そんなある日2012の公開があった。

空前のヒット作ということで僕はウキウキして観た。
しかし、それで大シックを受けてしまう。
2012の視覚から来る衝撃は物凄いものだった。
僕は、大地が割れ、ビルが崩れる様を観て放心状態となった。
実は、この作品を観て僕は2週間、寝込んでしまった。東日本大震災の時もそうだった。

東日本大震災は、僕の時も止めてしまった。
あの衝撃は、僕を悪化させた。地震が家を揺らし、パニックになった。
ニュースで流れ僕はどうしようもなく抑えきれない思いになった。
被害が報告され、人々が津波にのまれ、脳が停止し、恐怖が襲って来た。
恐ろしくて、僕は震える毎日を過ごした。

東日本大震災のことを思い出しそうなので、いったん手を止めて集中を切ります。

僕にとっての、地震体験はまたいつか書こうと思う。
やはりショックが大きくてまだ書けないのだと思う。
なるべく思い出さないようにしているので、ちょっとまだ処理出来ていないのですね。
その代りあの震災から家では、徹底した防災意識が植えつけられた。
それもまた、9月にでも書こうかなと思います。


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