発達障害なう

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小学校時代

【ご注意】このブログ(ツイッター含む)の文章の内容は、僕が障害を乗り越える過程です。現在進行形ではありますので、人によっては不快に思ったり、障害当事者の方は、フラッシュバックを起こす危険性もあります。文章で生々しく当時のことを再現しておりますので、閲覧される場合はじゅうぶんご配慮の上、自己責任でお読みください。また、自傷などは、一切僕はしておりません。
また、このブログに書いてあることは、あくまで、一障害者の発言であり、専門家の意見ではありません。僕の発言だけを鵜呑みにすれば、危険をともなうことになりかねません。そして、僕の文章は、全てを網羅するものでもなんでもありません。そして、発言内容を他者に押し付けるつもりもございません。その点、ご留意の上、お読みくださると幸いです。
【自己紹介】ADHD アスペルガー症候群 強迫性障害 反社会性人格障害 10才で診断。双極性障害は19才で診断。 小1からの出来事をツイートしています。発達障害関連無言フォローします。愛の手帳4(療育手帳B2)障害者手帳1級取得。精神年齢14才。亡母がアスペルガー・ADHD、現在21才。フリープログラマー♂ 2015年6月9日スタート

小学校時代2

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【小学生4年~】

小学校4年生の初夏、体育の時に僕は、長袖の運動着を着ていました。
いくら言っても半袖を持参しない僕にしびれを切らし、担任の先生は母に連絡したそうです。
いつまで冬の体操着なのですかという質問に、母はその意味が呑み込めずに、押し問答になってしまったそうです。

僕は、感覚過敏であり、ちょっとした洋服のでっぱりが気に入らないと脱いでしまっていました。
洋服のタグは必ず全て丁寧に外し、手首も締まっていないかどうか、首回りに襟がないかどうか、ズボンもウエストのゴムが締まりすぎていないものでないと履けませんでした。
とにかく神経質で煩かったのです。

運動着の半袖は、僕にとって嫌なものでした。
半袖の腕部分がどうしてもチクチク感じてしまい着ることが出来なかったのです。
母は
「暑かったら自分で脱ぐはずだ。それに嫌がっている。」
先生は
「皆が半袖だから従ってほしい。」
学校で、僕は泣く泣く半袖を着させられ体育が嫌いになってしまいました。

体操着の一件で僕は、担任を警戒してしまい学校を休むようになって行きました。
母も無理矢理着させたことに心外だったので、僕には休む時間をくれました。
授業はどんどん進みましたが、自宅で一人絵を描いたりしていました。
そんなある日担任が自宅を訪れ明日から来るようにとだけ言いに来ました。

翌日、僕は渋々登校をしました。
すると
「やぁやぁ来たか。」
と大好きな算数の先生が声をかけてくださいました。
「ちゃんと来て偉いな、じゃあ放課後に欲しいと言っていたものを上げよう。」
僕は何だろうとウズウズしながら放課後まで待ち、算数の先生を訪ねました。
紙のロール芯がそこにありました。

算数の先生は、僕が欲しがっていたものを準備して待っていてくれました。
僕は嬉々としてロール芯をいただき、お礼を言いました。
早速帰って遊ぼうと、下駄箱で靴を履いていると隣のクラスの男の子が
「おい探検に行こうぜ。」
と誘ってきました。
僕は探検と聞いて興味を持ち付いていきました。

その子は問題児として有名だったそうですが、僕は知りませんでした。
くっ付いて歩きながら、ロール芯を振り回していましたが、その子は色々なところで何かをしていました。
僕は、気が付くこともなくその子のお供をさせられていたのです。
すると、先生に見つかってしまいました。
「何をしているの!?」

先生は、大きな声で他の先生も呼んでいました。
僕は、何が起こっているのかさっぱりわからず、ただロール芯を握りしめていました。
結局、さっきの子は教室に侵入し引きだしを開けて物色していたそうです。
先生は僕を見て
「これは泥棒なのよ。ロール芯も学校のものでしょう。返しなさい。」

そう言うと、先生は僕の手からロール芯を奪おうとしました。
そこで僕は抵抗をし
「これは僕がもらったんだ。」
と言いましたが、まったく信じてもらえませんでした。
さっきの子はどこかに連れていかれました。
母が呼ばれる前に、僕は無理矢理ロール芯を取り上げられ、悔しくて泣き出していました。

母が来るまでの間、僕は先生に責められました。
不法侵入だの、泥棒だの、窃盗だの。僕は算数の先生に聞いてほしいと懇願しましたがなかなか聞いてもらえず、僕は教室に閉じ込められてしまいました。
母が来た時の僕は、顔が青ざめ放心状態だったそうです。
先生達は、母に事情を説明していました。

すると母は激怒し、おかしいではないかと先生達に詰め寄っていました。
僕はショックで立ち上がることも出来ず、冷たい先生の顔がいくつも並んでいる場面を何度も思い出していました。
そこに算数の先生が騒ぎを聞き、僕を見て
「ロール芯は、間違いなく僕があげたものです。」
と証言してくださいました。

母は、それならば持って帰りましょう。
と言いましたが先生達は許さず、
「いえ、そのロール芯は学校の備品です。」
と言いどこかに持ち去ってしまいました。
ここまでは覚えているのですが後のことはショックで覚えていません。
その後僕は、泣きながら廊下で暴れ、先生達に反抗しまくったようです。

たかがどうせゴミになるロール芯を、いい大人が何も判断も出来ない子供から奪うなど、今思えば馬鹿馬鹿しい話です。
そうでなくても、あの日僕は久しぶりに登校し、ご褒美として算数の先生から直接許可をいただきもらったものです。
責める筋が違う。
母と僕は、学校に不信感を抱いてしまったのです。

結局、僕はタイミングが悪くたまたま問題児と一緒に行動していたことで、先生の心証を悪くし、泥棒と言われてしまいました。
それから、また僕は学校嫌いになってしまいました。
ロール芯で妹と闘いごっこをしたかっただけなのに、すっかり大人が怖くなり母以外の大人と目を合わせなくなりました。

小学校時代1

【小学生一年~】

僕が普通ではないと最初に見抜いたのは、小学校一年生の担任の教師でした。
「貴方は物の考え方が子供らしくない。
大人のような考え方をする。」
と言われました。
「それと、わたしは先生なのだから先生と呼びなさい。
お前ではないし、ママでもありません。」
僕は、先生と認識した覚えはなかったので驚きました。

担任の先生、普通なら誰でも承知していることでしょうが、僕にはどうしても理解できず、
「僕が先生と認めないと呼べません。」
と答えると、
「貴方が認めないと先生と呼ばないのは、貴方から見たことです。
貴方は社会の一員なのです。
教わるものは、礼を尽くしなさいと仰られました。」
それで納得しました。

小学校で、友達と関わることを避けました。
同級生のことを頭から馬鹿にしていたのです。
様々な事柄にいちいちつまづく同級生を見て、
なぜこんな簡単な道理がわからないのだろうかと苛々していました。
子供らしさ故なのでしょうが僕には理解出来ませんでした。
いつも煩い教室が日々苦痛になりました。

僕は、授業中に答えを言ってしまい考える時間は勿体ないと勝手に電卓を持参し、叱られました。
電卓があるのに、何故計算を覚えなくてはならないのかしつこく質問しました。
すると先生は、
「貴方は道具に頼って生活なさるおつもりですか?それでは、賢いとは言えませんよ。」
と仰りやっと納得できました。

僕はいちいち面倒くさい人間となって行きました。
授業中質問を大量に浴びせ、ハイハイと手を挙げ周りの迷惑など感じませんでした。
周囲が見えなかった僕には、友達は見えず、ただの障害物にしか思っていませんでした。
僕は「障害物」を避けるため、ゲームのように交わすことを面白がっていました。

僕が先生を先生と認識しなかったように、母親を認識することも遅かったです。
僕にとって母親は、食べさせてくれる人というだけであり、母親を求めて泣くことは一切しませんでした。
人見知りをせず、誰でも良かったという感じです。
また、生まれたときから、目を合わせることをしなかったようです。

僕が言う発達障害というものは、最近、自閉症スペクトラムと一括され、
わかりやすいようなわかりにくいような、広範囲にまとめられてしまいました。
僕は、それを理解出来ずに、また名前が長くて嫌です。
ですから、ちゃんと理解出来るまでは、発達障害と連呼することが多いと思います。

ある日僕は、給食が突然教室で食べれなくなりました。
教室にも入れなくなりどうしても教室の臭いが違って感じられ給食もその臭いに混じってしまい吐き出してしまうのです。
臭いと言う子はおらずわかってもらえなかったのですが、後日ワックスをかけなおしたことがわかりその臭いだと判明したのです。

僕には友達が出来ず話しかけ方もわかりませんでした。
それでも気になる子がいると驚かすことで気を引こうとしました。
ちょうど階段の上で話をしているときに、
「ワッ!」
と押して、驚く顔がみたかっただけですが
その子はバランスを崩し転んでしまいました。
階段から数段落下足をくじいてしまったのです。

僕は、危険の予測ということが欠けていたのです。
階段など危ない場所で押したらどうなるか、それすら理解出来ていませんでした。
幸いなことに怪我は大事に至りませんでしたが、当時の僕は母親とその子の家を訪ねて謝罪に行ったのでした。
しかし、僕は何故悪いのかわからず謝ることが出来なかったのです。

僕は危険人物となりました。
友達になりたかった子は相変わらず優しくしてくれましたが、
僕はいじめることで反応してくれるのを、勘違いして楽しんでいました。
最終的には嫌われ話も出来なくなりました。
まだ、発達障害だということも判明しておらず
僕は学校に行きながらどんどん嫌われていきました。

それからはたくさん問題を起こしました。
ホウキを振り回し女の子に当たり眼鏡を壊したり、学校の授業中にどこかに行ってしまったり、
授業が終わっていても好きなことは集中していて止めたくないのでずっと一人で計算や絵を描いていました。
周囲の動きなどまったく目に入りませんでした。

体育の授業はボールを扱いますが、僕はひとり占めしてしまいます。
もちろん注意されるのですが、なぜなのかわかりませんでした。
ひたすらボールを抱きしめて、嫌だ嫌だを言いボールを離さない姿を見て同級生は困り果ててしまったでしょう。先生に取り上げられてしまい、悔しくて仕方ありませんでした。

学校に通学するときも問題を起こしていました。
よくまっすぐ帰りなさいと言われると本当に直線で帰ろうとし、比喩が通じないと言いますが僕もそうです。
人様の庭を通るわ、樹があれば登り、なるべく近道をしようとしました。
通学路なんて守りませんでした。
よくその姿を目撃され通報されたものです。

あまりにも酷い有様の僕を見兼ねて、スクールカウンセラーさんとお話ししましょう、ということになりました。
しかし、僕は突然初対面の人とうまく話せません。
それどころか、暴言まで吐いてしまうのです。
せっかく貴重な時間を割いていただいているのにもかかわらず僕は話そうとしませんでした。

カウンセラーは次の機会、ということで解放された僕は早速図工をすることにしました。
しかし同級生は国語の時間でした。
僕はそれはお構いなしです。
大声で呼びとめていたであろう先生を無視しさっさと絵具を持って中庭の樹を書くことに没頭します。
綺麗な緑をたくさん使って描く時間が大好きでした。

体育の授業で運動着を着用します。
僕は着替えは遅いですが自力で出来ました。
着替えビリとなってしまうのですが、必ず並んでいる列に割り込んでいました。
その日はなぜか参観日ではないのに、母親が来て観ていました。
僕は母親が来てくれるなんて、嬉しいと物凄くテンションが上がったのを覚えています。


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