発達障害なう

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中学校時代

【ご注意】このブログ(ツイッター含む)の文章の内容は、僕が障害を乗り越える過程です。現在進行形ではありますので、人によっては不快に思ったり、障害当事者の方は、フラッシュバックを起こす危険性もあります。文章で生々しく当時のことを再現しておりますので、閲覧される場合はじゅうぶんご配慮の上、自己責任でお読みください。また、自傷などは、一切僕はしておりません。
また、このブログに書いてあることは、あくまで、一障害者の発言であり、専門家の意見ではありません。僕の発言だけを鵜呑みにすれば、危険をともなうことになりかねません。そして、僕の文章は、全てを網羅するものでもなんでもありません。そして、発言内容を他者に押し付けるつもりもございません。その点、ご留意の上、お読みくださると幸いです。
【自己紹介】ADHD アスペルガー症候群 強迫性障害 反社会性人格障害 10才で診断。双極性障害は19才で診断。 小1からの出来事をツイートしています。発達障害関連無言フォローします。愛の手帳4(療育手帳B2)障害者手帳1級取得。精神年齢14才。亡母がアスペルガー・ADHD、現在21才。フリープログラマー♂ 2015年6月9日スタート

中学時代6

僕は中学三年の冬になった。
僕は猫と奮闘しながら、高校のことを考えるようになった。
しかし、学校をロクに言っていないし、勉強もしていない。
文字も書けないとなると、養護学校高等部しか選択肢が無かった。
僕は、担任の先生と一緒に養護学校に面接に行ったりして過ごした。

養護学校では、作業をしたり社会に出る勉強が主だと言う。
僕はわからなかったが、そういうものなんだと思った。
母は、僕が養護学校に進めることを喜んだ。頑張って通おうね、と言った。
まだ、外出することは出来なかったがきっと行けるかもしれないと思うようにした。
不安になると猫を抱きしめた。

僕は、中学三年の二学期から、少しずつ母付添で学校に通うことになった。
多くて週に1回、そんな日が続いた。
学校では僕は数学のプリントをやったが、難しすぎてわからなかった。
習っていないのでわかるわけもなく、僕は詰まらなかった。
それに、国語なんてもっと難しい。文字が書けなかったのだ。

これはまずいと、先生はドリルを持ってきたがそれも難しい。
そこで、母が手作りで数学の問題を作ってくれるようになった。
僕は、計算は得意で、式を飛ばして答えだけ書いてしまう。
ひっ算なども頭の中でやってしまうからだ。
すると、答えは△となってしまい、納得できなかった。

問題が文章で書いてあると、これがさっぱり意味がわからない。
何を求めたらいいのか理解出来ずに答えが書けない。
だが、計算となると、ぱっぱと答える。
何度も式を書けと言われたが、意味がない答えはわかった、と繰り返して僕は書かなかった。
困りましたね、と先生は言うが僕は困らなかった。

国語と数学をやったが、国語はまるで駄目で、文章の感想を書けと言われてもまったくわからない。
漢字はだいぶネットで調べて覚えてきたが、書くことが出来なかった。
僕は漢字をパーツにしか見えなくて、全体を組み立てることが出来なかった。
サンズイが反対にくっついたり、左右反対が多かった。

鉛筆を上手に持つことも出来ない。
力を入れすぎて鉛筆が折れてしまう。
それならばとシャープペンを持って行ったが、ポキポキと芯を折ってしまう。
うまく筆圧を計算出来ず、母の作ったプリントが破れてばかりいた。
うまくいかないのでイライラしながら消しゴムで消すが、紙を盛大に破ってしまった。

そんなことをしながら、冬になっていたので、僕は腐っていた。
勉強をしたくても、書くことが出来ない。
どうしたって、シャープペンは折れてしまうし、紙は破れるし、字は書けない。
僕にとっては、不思議だった。
ネットではちゃんと話して文字を打ち込んでいるのに何故か書けないのだ。

母は学校に行く前に必ず勉強ファイルを作り、手作りの問題を作成して僕に持たせた。
それを夕方学校で週に一度やり、一時間だけ出席した。
僕が学校以外でも出来るようにと、たくさんプリントを作った。
僕のレベルに合わせて作っていくのだ。
プリントには必ず解説が入れこんであり、なかなか親切だった。

教科書とにらめっこして、一生懸命問題を作る母を見ながら、僕はプログラムの勉強もした。
国語はもうネットで文字が打てればいいやと諦めてしまった。
数学だけやった。
冬が終わりいよいよ僕の卒業式が近づいた。
先生は、是非参加してほしいと言った。
僕は小学校でも卒業式だけは出ていたので頷いた。

僕が中学三年になって、卒業式を迎えるまでにいろいろなことがあった。
いろいろ小学校時代のことなどツイッターに書いてきたが、結構鮮明に覚えているものだ。
あの時の先生の顔だとかセリフだとか。
特別に記憶力が良いわけではないだろうが、理解が得られない時などのことはしっかり記憶している。

中学三年の時の、支援学級の担任は、僕結構好きだった。
サバサバした若い先生で、屈託がない感じ。
裏表もなんにもありませんって印象だった。
いつも、僕が母手作りのプリント持参で登校(車でだが)すると、
「おう、おはよう!」
と元気よく迎えてくれた。
特に怒りもしないし、叱らない先生だ。

ある日、僕は先生との約束の日に寝坊をしてしまい学校に行かなかった。
母は起こしに来たが起きれなかった。
前日にネトゲを深夜までやっていたせいで、時間のペースが狂ってしまっていた。
ネトゲでは、相変わらず僕はマスターを務めていたが、どんどん大きくなってくる組織に面倒なことも増えていた。

僕がすっぽかした翌日、母に担任から連絡があったそうだ。
次の予定を立てるためだ。翌火曜日にとなったそうだが、僕は上の空で聞いていた。
頭の中がマスター業と、プログラムの勉強でいっぱいだったからだ。
その上学校なんて行っている暇がない。
それでも、母は火曜日に行くからねと念を押した。

そして、翌火曜日。僕が登校する時間は夕方の16時だ。
そして17時まで勉強をした。
だいたい、毎週一回だけ。それでも結構大変なことだった。
何故16時なのかと言えば、その時間なら部活動の時間になっているから、担任が手が空くよということだった。
しかし、外ではわあわあと人の声がしていた。

無事に起床出来た僕は、母の車で学校の裏門から入る。
すると、元気の良い声で、野球部やサッカー部が、掛け声をあげながら練習をしている。
僕は耳に手をあててなるべく聞こえないようにしてから、注意深く車を出た。
隠密のように、壁に張り付き辺りを伺ってから決意して歩き出す。

ピタッと張り付いてキョロキョロする。
ヨシ誰も来ない大丈夫だ。
まるでFPSのクリアリングみたいに、柱から柱にタタタッーと走る。
と、そこで予想外の出来事が発生する。
渡り廊下の向こうから、人がこっちに向かって歩いてきたのだ。
これはマズイ!
と僕は隠れる場所を探すが周囲にはなにもない。

しまった一生の不覚だ。
どうしよう。
慌てる僕は、後ろから付いてくるはずの母を目で探すが、何をしているのか、まだ追いついていなかった。
僕は、いつもダッシュで外壁際を走るので先に離れすぎてしまった。
策を考えたが、隠れるところなんてない。
どんどん声は近づいてくる。
うわ、どうしよう。

僕は、観念することにした。
そうだ、さりげなく、部活動をやっている人みたいに歩いていればいい。
隠れたら余計に不自然だ。
覚悟を決めて歩きはじめる。
渡り廊下の向こうからは、女性の声がした。
この期に及んで苦手な女性が来るとは僕はついてない。
そうだ、担任がひょっこり来てくれないだろうか。

先週、すっぽかしたんだ。窓から担任が顔を出しても良いだろう。
そうすれば、僕はちょっとホッとするのに。
教室まであと30歩。首を伸ばして覗いてみるが担任が外に居る気配はない。
今日に限って僕を迎えないなんて、なんでもかんでもついていない。
腹を決め歩き出す。
声はもう曲がり角の向こう側だ。

あぁ、もう最悪だ。
人に会いたくないのに。
とにかく顔を逸らしていよう。
きゃあきゃあと甲高い声がして、女性が3人生徒だった。
なんでもう放課後なのに、渡り廊下なんて歩いているんだよ。
おかしいだろうと思いながら歩いているとちょうど渡り廊下と僕の進路が交差しているところに差し掛かった。

女性の声が止まった。
と、すぐに聞き覚えのある声で
「あれ、みらい。」
「どうしてここにいるの?」
おいおい何故名前を知っている、と仕方なく顔を向けると、その声の主は妹だった。
妹は、友人二人と何かを抱えて歩いていた。
びっくりしたような目で僕を見る三人を前に、僕は茫然とするしかなかった。

そうだ、すっかり忘れていたが、妹もこの学校の生徒だった。
二年生だ。
妹の友人二人は、初めて見るであろう男の存在に驚いたのか、目をパチクリしていた。
「何をしているの?一人で来たの?」
妹は質問をいっぱいした。
空気を読めよ、妹よ。
僕が、生まれたての小鹿状態になっているのがわからないのか。

当然何も答えられるわけもなく、完全に凍りつく僕。
妹の友人たちは、
「ねえねえ誰なの?」
などと妹に聞いている。
他人だと言うのだ。
お願いそうして。
期待を裏切って妹は
「お兄ちゃんなの!」
と満面の笑みで答える。
あぁ、終わった。
個人情報じゃないか。
と思いながらも、白目でその場に立っていた。

母は、ようやく僕に辿り着き、あらまあ一緒にいたのね、と呑気に言っている。
僕はその隙をついて、進行方向に歩き出した。
すると、やっと担任が窓から顔を出し、おはようと叫んでいた。
僕は、汗びっしょりで、ようやく入った教室でぜえぜえ肩から息をしていた。
担任は、丸椅子を用意してくれた。

後ろから母が来て、手作りプリントを担任に渡す。
僕は、さっきの遭遇で動揺してしまい、もはや勉強どころではない。
「いや、ちょっと待って。今日はもう無理だ。」
と僕は宣言し、カバンを下におろして机に顔を突っ伏した。
担任は、どうした?と聞いてきたが、そのうち放っておいてくれた。

週に一度、一時間だけ勉強しに登校する貴重な時間だが、僕は体調を崩してしまい、その日は何も出来なかった。
おまけに鼻血まで出してしまい、お腹も痛くなるし、早々と母が呼ばれ帰宅した。
いつも母は、登校中何があってもいいように、学校の駐車場で待機していたのだ。
まさか妹に学校で会うとは。

僕にとって、家族であっても、外の想定していない場所で会ったりすると普通に対応出来ない。
それがたとえ妹であっても、違う感じがして話せなくなるし、他人のふりをしてほしくなる。
おまけに、友人まで一緒だったのだから余計だ。
僕にはその当時には、どうしても出来ずに余所余所しいのだった。

妹にとっては、珍しい幽霊生徒の僕とバッタリ会うなんて、奇跡に近いことなのだろう。
喜んで友人に紹介したくもなったのだ。
しかし僕はロクに話せないのだから、おかしく思われたんじゃないかと気に病んだ。
それからは、妹にも会わないか更なるクリアリングをし、徹底して人に会わないように登校した。

そんな風に、中学の外壁を進行する方法にも完璧になってきた頃、担任が、僕に養護学校の話をしてきた。
僕は、ちょっと前に養護学校の高等部に書類の提出をし、進学する手続きを済ませたのだった。
しかし、合格の発表はまだ先だったのだ。
ちゃんと身体のリズムを整えておくんだぞ、と言っていた。

母は、養護学校に僕が行くことを喜んでいた。
普通の高校には絶対に行けないし、養護学校だったら社会的なことも練習したりして学べるからね、と言っていた。
僕は、養護学校で何をするのかよくわかってはいなかったが、このまま中学を卒業して、ずっと家に居るのもまずいかなとは思っていた。

世間では、ニートという言葉が流行り、僕もネトゲばかりやっていると、
「お前ニートだろう。」
などと、言われることがあった。
そのたびに否定してきたが、中学を卒業して、どこも所属しないとなると、ニートになってしまう。
それだけは、避けたいと思った。
なんとなくニートになりたくなかったのだ。

母は、
「みらいは、障害もあるのだし、何も無理して頑張らなくてもニートって言わないんだから大丈夫よ。」
と言っていたが、僕にとってはそれは信じられなかった。
働いたら負けなんて言葉も、ネトゲではよく聞くフレーズだ。
僕の仲間にだって、働いてなくてネトゲばかりしている人もたくさんいた。

ニートの仲間はどうやって生計を立てているのかを知ったのは、本人の口からだった。
働くのが嫌で、両親と一緒に暮らし、いろいろ支払もしてもらっているのだそうで、食事も上げ膳据え膳だ。
僕は、特に何を言えばいいのかわからずに、ホウホウと聞いていた。
そこで、余計なことを言うつもりもなかった。

働くなんて馬鹿馬鹿しい。
時間は全部俺のもの。
生活保護の方が働くよりもたくさんお金をもらえる。
そういう言葉がよくネットでは飛び交っていた。
特に身体の障害も無く、精神はなんともなくても、世の中はワーキングプアだからねと働くのをやめてしまうものも居た。
若い人も中年も働かない人が居た。

僕はそういう人たちとネトゲで話しながら、チームを強くしてきたが、どうしても働かないということが理解出来ずにいた。
働けないのではなく、働かないのだから、ズルをしているのか、人間関係が面倒なのか、様々な理由の人がいた。
僕はまだ中学生だったし何も言われなかったが、心配になってきたのだ。

もし僕が養護学校に行って、少しでも社会性のスキルを身に付けたら、もしかしたら働けるのかもしれない。
これはとにかく養護学校に行かないと大変なことになってしまうと思った。
すると担任が
「じゃあ電車に乗る練習をしようか。」
と誘ってきた。
僕が通うはずの養護学校までは、電車で行くと言うのだ。

僕は即座に、担任の言葉に承諾をした。
「やるやる。電車に乗らなくっちゃ。」
よし僕だって電車くらい一人で乗れるに決まっている。
しかし、それにはルールを覚えたり、あれこれやらなきゃいけないことがあるはずだ。
僕はこれから、学校で勉強をする代わりに、電車に乗る練習を担任とすることになった。

電車はひっきりなしに動いている。
数分間隔で人を運び、吐き出しては呑み込んでいる。
人ごみが苦手な僕、人の波の乗れない僕、こんな僕でも大丈夫なのだろうか、と不安になったが、何しろ担任と一緒なのだ。
まったく問題ないはず、と、当日は意気揚々と学校に行った。
母は、僕にSuicaを持たせた。

何度も確認はした。Suicaの使い方だって知っている。
改札にカードをあてればいいだけ。そうすると改札がパカッと開くんだから。世の中便利になったものだ。
これでどこにでも行けるんだ。
帰りも同じようにすること。
脳内でシュミレーションをして、僕はドキドキしながら駅に担任と行った。

駅は、言い表しようがないくらいの人また人。よくまぁ、これだけ人がいる。
しかし、僕は教わった。
カボチャだあれは、じゃがいもだ、もしかしたら、キャベツだ。そう思うんだ。
目玉がギョロッとこっちを見てもあれは野菜だから。
野菜は僕を認識できない。
そう思うんだ。
うまくやろううまく出来る。

担任は、僕のすぐ隣にピッタリと張り付き、僕の緊張を紛らわせようと、ゆっくり歩いていた。
僕は持たせてくれたカード入れを何度も手で感触を確かめ、よしあるなこれでよし、と思っていた。
どんどん駅の中に入り、人はたくさんどっと溢れてくる。
僕は、キャベツキャベツと呪文を唱えながら歩いていた。

ここからあそこに行ってどうのこうのと、担任が線路図を指さして経路の説明をする。
もちろん僕の耳には届いていない。
こんな雑踏では、人の声なんて僕には聞き取れない。
ガヤガヤどんどん大きくなる音や声に、僕は我慢した。
そしていよいよ改札口が近づいてきた。
人は、川の流れのようになっている。

改札にどっと集中し、スムーズに一人ずつ流れては、また拡散されていく。
カードをかざして、ピンポーンと鳴って、どうぞ電車にお乗りくださいの合図が出る。
うまくやろう。
僕は、皆と同じように、カードからわざわざSuicaを出して手に持った。
そして、僕の番だ。
改札にかざそうとタッチする。

と、ここから僕、ほとんど真っ白になった。
結局僕はなぜか通れずブッブーッという感じで赤くなってしまい、固まってしまう。
人の波は、この通りだけ詰まってしまい、担任が再度やろうと僕の手からカードを取る。
僕は、急に目が覚める。あ、野菜じゃない。
人がいっぱいいる。そうなるともう駄目だった。

そう、我に返る感じ。
今までは、夢を見ていた。
颯爽と駅を歩く僕。
まるで学生が学校に通うみたいに、買い物を楽しむみたいに。
でも、僕は夢から覚めてしまった。
急に目に入ってきたのは、僕を見る人。
目玉はやはり人間のものだった。
僕は、担任の腕にしがみつき、恐怖に怯えてしまった。
帰ろう帰ろう。

担任は、僕の様子を察したのか、
「帰ろうか、今日はここまでだ。」
と言い、僕の腕を掴んで足早に歩き始めた。
僕は、フードを被り、物凄く隠れたい衝動を我慢して歩いた。
学校に戻ると、少しホッとした。
母が迎えに来てくれ、担任から改札での出来事を聞いている。
僕の電車デビューは、やれなかった。

ゆっくりでいいのよ。
失敗した僕をなぐさめるように、母は言った。
僕は返事したが二度とやれる気がしなかった。
これでは大変だ。僕は、この先が不安になったが、まだ諦めたくなかった。
次はうまくやろうと心に決めていた。

☆養護学校高等部(母がなぜか養護学校と連呼していた)=特別支援学校高等部


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中学時代5

中学三年の秋に戻ろう。
僕は高校をどうするのか、児童相談所や中学の支援学級の先生と母は話し合ったりしていた。
僕は呑気に構えていたし、年齢的には行った方が良いだろうとは思っていたが、自分がしたくない勉強までする気が無かった。
中学には相変わらず登校できずネットでの生活が主になっていた。

母は、僕が食事をしにキッチンに来ると、
おはようなのかしら、おやすみなのかしらと聞いてきた。
僕の生活リズムはめちゃくちゃで24時間では動いてなかった。
病院の先生曰く、26時間くらいで動いているのでないかとのことだった。
この頃に睡眠リズム障害と言われてしまった。

中学時代~高校時代の睡眠時間は、物凄く長かった。
一日に12時間~14時間は眠り続ける。
今は、落ち着いてきたと思う。酷い時になると、24時間眠り続けることもよくあった。
起きると一日を飛び越しているので驚く。
よく飲まず食わずでトイレにも行かずにこんこんと寝ていられると思う。

また、悪夢も多かった。
毎日悪夢のオンパレード。
多いのが追いかけられる夢で、次が害虫の夢。
不快な夢を延々と見るので、寝ていても起きているのと変わらないくらい疲れることもあった。
僕は、汗をぐっしょりかいて目が覚めることが多い。
鳥がさえずり爽やかな朝なんて経験したことが無いのだ。

睡眠については、僕にもコントロールのしようがない。
寝てしまうとまったく起きれず途中で起きることもなかった。
母は僕にお健やかにお眠りですねとよく言ったものだ。
病院の先生は、睡眠について僕は日頃からストレスが多いのでたくさんの睡眠が必要なのだと解説してくれた。
その代り一日は短かった。

普通はそこまで眠れませんから。
と病院の先生は仰った。
確かに普通は腹が減るだろう。
僕の睡眠最高記録は、36時間である。
よく寝ているだけで身体が悪いわけでもない。
そんな風だから通常の生活に身体が合わせられなかった。
また、毎日生活がズレていくので計画を立てるにも大変だった。

僕は地球に身体がうまく適応していないのではないかという考えが頭をよぎった。
人間の大切な睡眠が調節出来ないのは致命傷だと思う。
社会に出たら尚更だ。
もし、会社員になって寝すぎてしまったらすぐにクビになってしまうだろうし、僕は一日24時間で動けないのだから勤務時間が減ってしまうだろう。

睡眠は、僕にとってはどうしても減らせないものだ。
それを朝には起きてくださいと言われても、どんなに頑張っても不可能だと思った。
よく太陽の光を浴びると体内スイッチがリセットされると言う。
僕も何度もやってみたが、眩しいだけでリセットはしない。
体内時計がぶっ壊れているのだと思う。

そういうこともあって僕はずっとリズムが狂いっぱなし。
しかし、身体はどこも悪くはない。
しかも最悪なことに起きている時間が短いこともある。
あれだけ寝ておいて8時間起きたらまた14時間寝てしまう。
ちっとも太れない。
3食食べている時間が無かった。
寝てばかりなので身長も伸びてしまった。

目が覚めると、まずは起きたことを認識する時間が必要だ。
ベッドの中でまず自分の身体を目で確認してみる。
どうやって動かすんだっけという感覚を取り戻すのに時間がかかる。
そして、おもむろに起き上がって再度身体を点検し、手足があるということを認識する。
そうしたらやっと椅子に座りボゥーとする。

飛び起きて即行動なんて芸当は僕には難しい。
たちまち手足がもつれて転んでしまう。
毎日毎日これは必ずやっている。
脳が身体を認識しないと動かせないのだ。
車だとすると、エンジンのかかりが遅くて、暖機運転が必要・点検も必要で、エンジンが温まったら、たちまち高速回転を始めてノンストップになるのだ。

僕は、脳が機能を開始しはじめるとすぐに思考が始まる。
昨日寝る前にやっていたことをすぐに継続して考え始めることが出来る。
鮮明に戻ってくるので、すぐに作業に取り掛かることが出来る。
目が覚めると、食事よりも先に思考する。
だいたい思考の気が済むと、やっと歯磨きをする気になったりする。

歯磨きをしたら、部屋に引っ込んでしまう。
口の中の違和感が消えるまで食事を取れないからだ。
そして再度思考に入り、起床してから3~4時間以上かけて食事をする気になってくる。
悲しいことに食事中も考えることを止めれない。
ずっとずっと考えてしまう。
機械的に食事を取りながら思考という有様だ。

食事も偏食だ。同じものを延々と食べても飽きない。
また、食感がネチョッとしたものは受け付けない。
玉ねぎ・ピーマン・トマト・レタス・ワカメ・ナス挙げたらきりがない。
マックに行くと必ず僕はハンバーガーを解体し始める。
玉ねぎを丁寧にどかして、ピクルスは撤去する。
母はその様子を気味悪がる。

肉は獣臭いのはまったく食べれない。
鶏肉は好きだと思う。
お米が大好きで、ご飯さえあれば、おかずは適当でも何とかなってしまう。
パンはパサパサしているので、口の違和感が苦手。
その代り調理パンなら食べれなくもない。
しっとりしていないと食べれない。
僕は要するに食感だけで判断しているのだ。

偏食のせいで給食は苦労した。
小学校4年までしか食べていないが口に出来ないこともあった。
いちいち素材が気になってしまい給食のメニューを見ないと信用できない。
食物アレルギーはないので勿体ないのだが、食感が優先するので仕方が無かった。
贅沢なお口なのね、と母は言い極力合わせてくれている。



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中学時代4

【中学三年生から~】

中学三年になって、僕はネットゲームのマスターとしての勉強をしていた。
たかが仮想空間と思うなかれ、人をまとめていくのは僕にとって問題が山積みなことばかりだった。
誰でも自分がこの人に付いて行こうと思うには根拠がある。
リアルで顔をあわせるわけではないから余計にはっきりせねばならない。

マスターとしての求められるのは、カリスマ性である。
強さ、人柄、問題解決能力、決断力、運営能力、情報力、人員配置、人員育成、営業力、企画もせねばならない。
人が不可欠で、それぞれの特性を見抜き、上手に配していかなくてはいけない。
また、自分の右腕になる強力な支援者も必要だった。

僕は、マスターとしてたくさんのスキルを身につけ強化していった。
自然に会社経営に近いことを練習していたのだ。
母も会社経営に走り回っていたのだが、その姿を見ながら吸収していった。
たまにうまく行かないことがあって困ると、解決の方法を相談したりした。
母は、的確なアドバイスをくれた。

強力な支援者には、僕の才能を買ってもらう必要がある。
力やお金で屈しさせても、他に良い条件があればすぐに裏切るだろう。
マスターは、尊敬されなくてはならなかった。
僕はノートを作り戦略を練り人を配した。
その姿を見せ、支援者を増やしていった。
冷たいばかりでも駄目だった。会議も盛んにした。

今までは、会話もままならなかった僕だが、この時期にかなりの会話を会得した。
コミュニケーションを積極的に取った。
僕は、将棋が大好きだ。
しかし、人を将棋の駒のように考えてはいけない。
駒でさえ、それぞれの特性を持つのだから、行きたいところへジャンプする。
そして何より人には心がある。

一時期、僕はなかなかアイテムをゲット出来ずに、イライラしていた。
母は、不満ばかり言って自信を無くす僕に、
「あなたは、運は無いけれど、実力があるわ。運では食べていけないけれど、実力があれば、必ずいつかは手に入れられるのよ。」
僕は、そうかもしれないな、と思い直して、前を向きなおした。

母は上手に人を活かす仕事をベースに会社を運営し始めていた。
僕はいちいちその経過を聞きたがった。
その奇策とも言えるプラン作成は僕を刺激した。
よく何も無いゼロからやるものだと質問すると、そうね、わたしには財産がある、それはね夢を持っているということなのよ。
へぇ、と僕はウキウキした。

普通の人なら、無名で軍資金ゼロで会社を始めようとは思わない。
頭がどうにかなったのではないかと思われるのがオチだ。
しかし、母はゼロだからこそやれる、という。
それは、マイナスではないからということと、失うものがないから挑めるのだということだった。
ハングリー精神を持てと常に言っていた。

わたしは人に夢を描かせるのよ。そしてそれを実現させる。
実現させるには、知識が必要だわ。
そしてちょっとした視点の切り替えと行動なのよ。
僕はホウホウと聞き入りノートに書き込む。
母も障害があるのだから、仕事を始めると家事も上手にオンオフをしていた。
そこから母の受付時間が決められたのだ。

母は家事受付時間を決めた。母営業時間と言っていた。
洗濯機、キッチン、お風呂、掃除機にまで営業時間が貼り付けてあった。
それ以外ではスイッチを入れないのだという。
まるで役所である。
お風呂は、年中入ってもいいが掃除時間は上記にある通りということらしい。
同居するもの同士のルールも決めた。

リビングは公共の場、個人の持ち物は持ち込まない。
持ち込む際は、立ち去る際に片付けること。
置きっ放しは忘れ物になり箱にインされ保管期間を過ぎると処分された。
本は、タグが付けられ管理された。引き出しも全てファイルで管理された。
セロハンテープが使いたければ棚5-2にあるということだ。

冷蔵庫も管理され記名式となった。
プリンを買ってくると各々サインするのだ。
妹と争奪戦をしなくても良くなるし、僕のプリンは安全に保管された。
おやつも全てそうだ。
洋服も管理され、全てジップロックに入れられた。
また、洋服の写真を全て撮りプリントアウトして、ジップロックに貼り付けられた。

母のアイデアは留まることを知らない。
家中管理してやるという意気込みは恐ろしい。
また一番なのは、視覚的に管理するという点だった。
洋服はぐちゃぐちゃにならないように、半袖は青い輪ゴムでくくり、長袖は黄色、七分袖は緑、ズボンも長さで色が同じようにする。
色の持つイメージを上手く利用した。

テレビは管理されリアルタイムでは災害時以外使用禁止となった。
ダラダラと見続けることは馬鹿馬鹿しいとのことと、必要な情報は他でも得られるとのことだ。
僕は音に弱いので助かった。
また、朝には必ずクラッシックが流された。
母曰く、ホテルの朝食をイメージだそうだ。
これで優雅になるのだそうだ。

食器も管理され、それぞれの食器は所定の洗い場に必ず置くこととなり、それをやらずにテーブルに置いたままだと、次の食事は出てこない。
僕と妹は競うようにルールを守り楽しんだ。
間違えるとお互い注意し合った。
家族とのイベントも、母は勝手にやるのでは無かった。
僕たちも一緒に考えて話し合った。

たとえば、旅行に行きましょう。
という企画と日程案を母が持ち込んでくる。
すると、皆で行き先、交通手段、見学地、宿泊施設を検討する。
それぞれ役割も分担した。
母は、ホテルの手配、見学地の調査で、妹は、持ち物の管理、僕は、交通手段の確認となった。
ほぼ決まりとなると、旅のしおり作成となる。

旅のしおりは、会議で決定した内容をパソコンで作成した。
旅の目標が掲げられ、日程はバスツアー並みに細かく明記された。
持ち物は、妹が全て報告し、3人で使うものには、担当が決められ書かれる。
僕は、交通手段混雑具合を調査し報告、日程とともに調整された。
そして災害時に避難する場所も入れた。

僕らは、家族として結束を深めていった。
それぞれのアイデアを盛り込んだ旅のしおりは完成しそれぞれに配られた。
母がピカピカな表紙を付けてくれ、小冊子のようだった。
僕達は、旅の前に何度もしおりを確認し、旅先に想いを馳せた。
そういえば、ご当地もの、お土産に至るまでしおりには書いてあった。

旅となると僕は注意を要する。
感覚過敏なところと強迫性である。
なるべく、刺激が少ないように配慮はされたが、知らない場所でのことなのでかなり緊張した。
旅をしながら、日程を確認しこなしていく。
目に付いたものはメモし、予定されていない行動はしない。
家族で離れないようにくっ付いて歩いた。

旅は見事に成功し、僕は計画の大切さと分担の意味を学んだ。
もちろん行き当たりばったりの旅も醍醐味があるだろうが、不測の事態に弱い僕には、配慮しなければ、パニックを起こしていただろう。
それから僕が旅行に参加する時には、必ずしおりが作成された。
楽しむためには、計画ありきだったのだ。

母は、家族での旅行やイベントには意味があると言う。
お金と時間をかけるのだからそこから学ばなくてはいけない。
学校の行事と同じだということだ。
そして、ただ子供を喜ばせることだけを考えるのでは無く、上手に刺激を取り入れて欲しいと言った。
これが生かせるお金の使い方なのよと自慢げに言った。

家では、母がいつも試行錯誤して、アイデアを考え出していた。
中には懲りすぎたり面倒で、続かないものもあった。
しかし、トライすることは経験に繋がり、失敗したことは肥やしになるのだから、次に向かうだけだと、母は言う。
障害の特性をうまく利用した家の中は、僕にも住みやすくなっていった。

僕は、社会のルールが理解出来なかったが、母の作るルールは、理解した。
そこに、守らせる意味本質があったからだ。
母家事受付時間は、母の時間活用のため必要であり休む時間も作り出せた。
物の管理は、物を大切に扱うことに繋がる。
何を求めるのかと言うことが、デカデカと書いてあるからだった。

秋になり、僕は本格的にプログラムの勉強をしゲームもした。
中学校には、母が連絡をマメにしていたようだった。
そろそろ療育手帳の再認定の時期が来るということで、僕は児童相談所に行った。
2時間弱をかけてテストをし、その場で判定がわかった。
僕は、ギリギリ知的障害ということだった。

こうやって文章を書いていると、知的障害なんて疑わしく思うだろう。
しかし、僕のテストの結果は極端だった。
0から140までの数値があるとしたら、僕はわかるところはずば抜けて130なのだが、ダメな部分は10とかになってしまう。
いまだに文字は鏡文字であり、漢字も書けない。

困るのは耳からの聴き取りだ。
僕は目の前に人が居て話していても、会話を聴き取れない。
話しかけられても、その言葉が音楽にしか聴こえないことがほとんどだ。
大抵聞き返し鸚鵡返しになってしまう。
「このジュースちょっと多すぎた。」が「とんかつをなるべく食べたいな。」
に謎変換する酷い物なのだ。

人が何かを言っていることはわかる。
音声が出ているのだから。
しかし、近くに居ても音程にしか聴こえない。
フンフンフフンみたいにしか聴こえず、まったくわからない。
僕は必死に、フンフンフフンと鸚鵡返しにし言葉を当てはめようとする。
日本語なのは、わかるが言葉として脳に入ってこないのだ。

母は知っているので、僕にはゆっくり言う。
そして、僕の注意が逸れないように、身体や指などを一切動かさないように話す。
僕は視界に何かが入ると、そっちに目が行ってしまい同時に、脳が言葉を聞き分けられないのだと思う。
これは、まったく改善せず、今でも苦しんでいる。
母も同じ特性があるという。

食事をしながら、会話は出来ない。
同時進行が処理できない。
レストランでもそうだ。
周囲に人や皿がカチャカチャ鳴ると、目の前の人の会話が聴き取れない。
ご飯も食べれなくなってしまう。
そこに居るだけで精一杯だからだ。
妹は、会話をしようとするのだが、ボクと母は聴き取れずに?となることが多い。

だいたいそこで人を怒らせてしまう。
ふざけているのかと言われるからだ。
そうじゃなくてもう一回お願いします、とお願いし耳に手を当て必死に集中しても聴き取れない。
さっきと同じに音楽になる。
僕は、ビックリする。
僕の脳はどうなっているのかと驚愕してしまうのである。
筆記が必須なのだ。

小学生の頃は、まだ聴き取れたような気がする。
中学生になって酷くなった。
それならば、と、電話にしてみると、直接耳に押し当てるとなんとか聴き取れる。
しかし、スピーカーにすると聴き取れない。
音楽は、流行りの曲もそうだ。歌詞は僕には聴き取れない。
全て曲と混ざってしまうのだ。

この曲は、悲しいわと言われても、曲調しかわからないので歌詞は知らないのだ。
そこで、調べて目で確認すると、やっとそう言っていたのか、とわかるのだ。
何事もそうなので、人と仕事でコミュニケーションを取るときには、全神経を集中させ聴きとるようにしている。
そして必ず確認をするようにする。

言葉の意味がわかっても、感情の部分は僕は理解が乏しい。
寂しいが理解出来ず、悲しいも切ないもよくわからない。
経験で聞いているだけで、僕には実はわかっていない。
こんな僕にドラマの深い意味がわかるわけも無いので、見ても映像しか伝わってこない。
それと、情報量が多すぎてパンクしてしまう。

妹はジブリが大好きだ。
僕にも一緒に観ようと言うが、15分で限界だ。
理解が出来なくて言葉も聴き取れない。
まずは最初の15分を繰り返して理解しなくては先に進まない。
映画を観るのも一苦労だ。その点、ドラゴンボールはわかりやすい。
視覚的なことが多いからだ。無声映画ならいいのかもしれない。

Mr.Beanは大好きだ。
視覚だけで楽しめる。
僕はよくあれを観て、母と大笑いしていた。チャップリンもそうだ。
音や言葉はいらないから、あんな風なドラマや映画があればいいなといつも思う。
そうして、僕は映画をたまに観るのだが刺激に気を付けて観ている。
そんなある日2012の公開があった。

空前のヒット作ということで僕はウキウキして観た。
しかし、それで大シックを受けてしまう。
2012の視覚から来る衝撃は物凄いものだった。
僕は、大地が割れ、ビルが崩れる様を観て放心状態となった。
実は、この作品を観て僕は2週間、寝込んでしまった。東日本大震災の時もそうだった。

東日本大震災は、僕の時も止めてしまった。
あの衝撃は、僕を悪化させた。地震が家を揺らし、パニックになった。
ニュースで流れ僕はどうしようもなく抑えきれない思いになった。
被害が報告され、人々が津波にのまれ、脳が停止し、恐怖が襲って来た。
恐ろしくて、僕は震える毎日を過ごした。

東日本大震災のことを思い出しそうなので、いったん手を止めて集中を切ります。

僕にとっての、地震体験はまたいつか書こうと思う。
やはりショックが大きくてまだ書けないのだと思う。
なるべく思い出さないようにしているので、ちょっとまだ処理出来ていないのですね。
その代りあの震災から家では、徹底した防災意識が植えつけられた。
それもまた、9月にでも書こうかなと思います。


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中学校時代3

【ここからは、かなり精神的に不安定な時期となります。
苦手な方・影響を受けやすい方は、ツイートを無視してください。】


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僕は、再三に渡って、学校でうまくやれずに、すっかりと心が折れてしまった。
人への不信感・自分への悔しさ・様々が渦巻き、とうとう口を利かなくなって、不安定になった。

中学校時代2

中学一年生って、僕にとっては社会の波が一気に押し寄せた感じだったと思う。
小学校では、囲いの中に守られていたが、いきなり外に出たのだから当たり前なのかもしれない。
僕は、先輩の一件からは、かなり警戒して学校に通っていたし、なるべく無かったことにしようとしていた。
忘れようとしたのだ。


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ところが、忘れようとしても、また思いだし悔しくなり腹が立つ、何とか復讐出来ないものかと考えるの堂々巡りで、忘れられなくなってしまった。
学校では、悶々とするしか無かったが、先輩にはその後、特に絡まれることもなく、平穏無事に過ごしていた。
家ではネットゲームに夢中になっていた。

母は最初、僕がネットゲームをすることを心配していた。
ネットの世界では、相手の顔が見えないから好き勝手にやられてしまう。
それが心配だと言っていた。
そこで、母が奇策を考え付いた。
心配なら、母もネットゲームをやる、というのである。
もともと、母はFFやドラゴンクエストなどが好きだった。

監視する、という意味でやるのではなく、共通の話題を持ちたい、ということだった。
そして、僕の会話についても良い勉強になるのではないかということだ。
僕は、母が一緒なら怖くはないだろうと考えていいねと言った。
その代り、お互いにルールを作った。
ネットの中であるということは、公衆性が高い。

そこで、絶対に親子だと言うことを公言しないこと。
本名・年齢・住所など個人情報を明かさないこと。
僕は、うんうんと聞き入り、パソコンにネットゲームをインストールした。
そうして、ネットゲームの中では、僕ら親子は、友達になったのだった。
僕は、学校から帰ってくると、ネットゲームで遊んだ。

ネットゲームをやると言っても、母(友達)が居るものだから、僕の行動は丸わかりだった。
ゲームの中では友達なのだから「タメ口」である。
僕は最初は一人でひたすらレベルを上げていたが、そのうち一人ではレベルが上がらなくなった。
そうなると仲間を募るか友達を作る必要がある。僕は躊躇していた。

人間関係に恐怖がある僕には、ハードルだったのだ。
当時は、僕は母と同じパソコン部屋に居たので、すぐ隣には母が居た。
僕がコツコツやっているというのに、母は実に楽しそうに仲間とおしゃべりしたり、狩りをしていた。
僕は横目で見ながら羨ましくなった。
ネットの世界でもなかなか馴染めなかった。

いくらネットゲームでも、世の中お金だ。
僕は、少しずつ狩りで得た収集品をお金にして細々と装備を買い集めていた。
しかし、母は上手に商売をしてみるみるうちにお金持ちになった。
仲間と取引したり、助けてもらったりということを、僕はチラチラ見ていた。
物には流通があるということを知った。

これは負けていられない。
僕の好奇心に火がついて、アイテムについて研究し売れるものを調べたり相場を頭に入れたりした。
アイテムはいくつもあるのだが、僕はすっかり暗記してしまった。
狩りのパーティに行くことも知ったが、会話が成立しなかった。
僕は、相手が何を言っているのか読み取れなかった。

そのうちに、僕は、わからないなら聞けばいいと思うようになった。
そして母を先生にして会話の仕方レッスンとなったのだ。
相手と取引をするときなど、挨拶や金額の説明などよくあることは、聞き取ってテンプレートにしてまとめた。
どうしても何と言ったらいいのかわからない場合は母を呼んだ。

熱心に会話の方法について、質問してくる僕を母は面倒くさがらずに教えてくれた。
僕のその頃の会話用ノートは、どんどん分厚くなっていった。
母は、こうなることをわかっていたのではないかなと思う。
ネットゲームなら不審がられずに僕の傍でサポート出来ると考えたのだろう。後は実行するだけだ。

最初は酷いものだった。ネットゲームだろうが目の前のキャラクターは、パソコンの前の誰かが動かしているものだ。
僕は、意識しすぎて全身から汗をかきながら、テンプレート通りに会話した。
見事会話が成立し嬉しく思った。僕は今まで自分のことばかり話していたと思う。
相手のことは聞かなかったのだ。

僕にとって、相手の感情は関係なかったのだ。
自分の用事だけ言ってその場を立ち去り挨拶もしない。
これでは、会話が成り立たないのも当然だった。
僕は、狩りのパーティでも勉強した。
狩りをしながら、仕事の話や学校の話をする人がいた。
僕は、聞きながら、なんとコメントするか必死に考えていた。

遊んだりしているうちに友達も出来た。
会社員で帰宅してからゲームで遊んでいるのだと言った。
僕の年齢倍以上の友達だった。
僕は大緊張したが、彼は上手に僕と遊んでくれた。
会話の中に難しい単語も入ってきたが、母に聞きながらクリアして行った。
まともに授業を受けていない僕には好都合だった。

彼との会話は多岐に渡り、社会の仕組みだの、経済の話だの、数学の話もした。
難しくて理解出来ない時は、ネットで調べて対応した。
僕は色々教わったと思う。
彼は仲間に入るやり方も教えてくれた。
母も一緒になって僕の後ろで指導してくれた。
友達関係を継続するには、何が必要なのかということだった。

友達関係を継続するのは、ネットゲームでは簡単だ。
リアルのように、細かくはない。
ただ挨拶をして、誘えばいい。
また、相手が困っていたら、助けてやればいい。
僕は、仲間が困っていれば、一生懸命協力することで信頼を得て行った。
また、会話力も数段腕が上がったと思う。
僕は自信をつけたのだ。

中学一年の夏、僕はこうやって過ごしていた。
一学期も終わろうとしていた時、学校は体調に寄って行ったり早退したりが続いていた。
学校に行くと僕はよく鼻血を出してしまった。
そのたびに保健室で休んだ。胃も痛くなった。
ギューと痛くなり失神しそうになった。
ストレスなのではないかと母は心配した。

夏は喉が渇いて下校時は本当にしんどかった。
僕は正門からは出入り出来ないのでいつも裏門から帰宅していた。
もうちょっとで夏休みだという時にその事件は起きた。
僕は友達と一緒に下校していたが、ちょうど商店の前を通り過ぎた。
すると例の先輩がちょうど出てきたのだ。
手にはガラス瓶を持っていた。

僕は、歩いて過ぎ去ろうとしたが呼び止められた。
「お前、これ捨ててこい。」
と先輩は瓶を僕に手渡そうとした。
突然のことで僕は意味がわからずに先輩を見た。
「あ、お前。なんだ、まだ生きていやがったのかこの障害。」
僕は、何も感じなかったので、また過ぎ去ろうとすると、今度は僕の前に立った。

「てめぇ、これ捨てろって言ってんだろうが。」
と今度は無理矢理瓶を持たせようとして押し付けてきた。
僕は、捨てる場所がわかりません。と言った。
すると先輩は、近くのブロック壁を指さし、
「そこに投げろ。」
と言った。
あ、そうですか、とばかりに僕は、瓶を受け取り投げた。
瓶は、壁にぶつかった。

ガシャンと音がして、瓶は砕けた。
しかし僕の投げる力が弱かったのか、飲み口のあたりがちょっと欠けただけだった。
僕は用事が済んだので立ち去ろうとすると、先輩は瓶を拾って激しく壁に投げ続けた。
「痛!」
という声が聞こえた。
後ろから老人が歩いてきていた。
老人は足から血を流していた。

「やべえ。」
と先輩は言って慌てて逃げ出した。
僕は、ボンヤリと老人を見ていた。
すると、近くに居た小学生が
「あれ、みらいくんだよね?」
と聞いてきた。僕は、うんそうだよ。
と答えたがそのまま歩いて行った。
老人は、足を怪我して座り込んでいた。
そこに生徒たちが集まってきて、僕は囲まれた。

先生が走ってきた。
僕は学校に連れ戻された。
母がまた呼ばれた。老人は足を怪我したが、そんなに深い傷ではなかったのだという。
しかし大変怒っていらっしゃるという。
母が来て何事か説明を受けていた。
僕が老人に瓶を投げつけたことになっていた。
僕はそれを聞いて、そんなことはしていないと言った。

支援学級の担任が僕のことを怖い顔をして見た。
「嘘はいけないよ、目撃証言もあるんだ。本当のことを言ってくれないと困るよ。これは傷害事件なんだから。」
この時、お兄さんのように感じていた担任が突然豹変したと思った。
目撃証言とは、僕に声をかけた小学生だった。
僕がやったと言ったそうだ。

僕は、何度も違うと言ったが、何回も責められているうちに、そうかもしれないと思うようになった。
母は僕を庇ったが、僕はとにかく早く帰りたかった。
僕が犯人だということになり、その日は帰宅して、また翌日呼び出された。
僕はもうどうでもよかった。
口がうまく回らなかった。
説明が出来なかった。

担任は、大きなノートを手に持って、僕を嫌な目で見て
「真実を話さないといけないよ。」
とばかり言った。
僕が違うと言えば真実と言う。
僕は、何も言えなくなり、悔しくなった。
この時僕は先輩のことが言えなかった。
そういうことも何も言えなかった。
僕を信じてください。
と言っても、信じられないと。

信じられないという言葉を聞いて、僕は手を噛み始めた。
うまく回らない口が苦しくなった。胸をどんどん叩いた。
まるで発作のように、僕は暴れはじめた。
小学校の先生も、僕を犯人扱いした。
ここでもそうだと思うと、僕は、頭を掻き毟りたくなった。
僕は、教室から担任を追い出し、教室に立て籠もった。

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