発達障害なう

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家族

【ご注意】このブログ(ツイッター含む)の文章の内容は、僕が障害を乗り越える過程です。現在進行形ではありますので、人によっては不快に思ったり、障害当事者の方は、フラッシュバックを起こす危険性もあります。文章で生々しく当時のことを再現しておりますので、閲覧される場合はじゅうぶんご配慮の上、自己責任でお読みください。また、自傷などは、一切僕はしておりません。
また、このブログに書いてあることは、あくまで、一障害者の発言であり、専門家の意見ではありません。僕の発言だけを鵜呑みにすれば、危険をともなうことになりかねません。そして、僕の文章は、全てを網羅するものでもなんでもありません。そして、発言内容を他者に押し付けるつもりもございません。その点、ご留意の上、お読みくださると幸いです。
【自己紹介】ADHD アスペルガー症候群 強迫性障害 反社会性人格障害 10才で診断。双極性障害は19才で診断。 小1からの出来事をツイートしています。発達障害関連無言フォローします。愛の手帳4(療育手帳B2)障害者手帳1級取得。精神年齢14才。亡母がアスペルガー・ADHD、現在21才。フリープログラマー♂ 2015年6月9日スタート

父について

父の日にちなんで、父の話から書きたいと思います。
僕の両親は、母が重病になった頃に離婚しました。
母曰く、仕事が続かず母といると甘えるためだと言います。
離婚は、母が決め実行したと聞いています。
しかし、母は僕や妹を父に会わせました。
まだ子供のうちは、父親の存在は必要だと考えたからです。


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僕は、父にそっくりです。
子供の頃の写真は、見分けがつかないくらいです。
父は、離婚後、仕事はやはり長続きせず、転々としながら、たまに食事に連れ出してくれました。
僕と妹だけ連れて行くつもりなのに、母はいそいそと支度してちゃっかり車に乗り込み
「ご馳走様です。」
と父に言っていました。

父からの養育費は、一切ありませんでしたので少しは食べさせてもらおうということです。
美味しいお寿司や、焼き肉など、普段は食べられないものを食べさせていただきました。
僕と妹は、離婚について寂しいとは思いませんでした。
二人は友達のように話していました。
よく母が父の相談を受けていました。

何故、仕事が続かないかを、こんこんと母は父に話しをして、やる気を出させていたと思います。
僕は、横からそれを見て、母はつくづくお節介だなと思っていました。
すると、母は、
「貴方たちにとって、父であることに変わりがありません。こうして食べ物をいただいたのですから、御礼しなさい。」

誕生日、クリスマスには、必ず父は素敵なプレゼントを僕たちに用意してくれました。
お年玉も持ってきてくれました。
しかし、僕は、それは母が準備したものだと知っています。
大きくなってきて、僕は見抜いてしまったからです。
しかし、母は、何度もこれは、お父さんからの贈り物ですよ、と言いました。

妹は、すっかり父が好きになり、僕も母の配慮を見て、父を応援するように見つめていたのです。
しかし、父はひとつだけ納得出来ないことがありました。
僕の発達障害についてです。
父は、僕が甘やかされてワガママ言っているだけだと思っていました。
母は一生懸命説明をしましたが、理解しませんでした。

祖父

僕には、優しい祖父だった。
いつも黙って見ていてくれた。
最期に一人一人呼ばれて話した。
何を話したのか覚えていない。
お葬式の日。
僕は死が理解できなかった。
ただ、人を捕まえては将棋で勝負を挑んでた。
 今、少しだけ成長した僕は、祖父と勝負出来なかったことだけが残念に思う。


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昨日は、妹と食事が一緒の時間でした。
妹とはあまり時間が合わないので、僕はいつもよりも嬉しくてテンションが上がってしまいました。
僕は妹を構いたいのですがどう話していいのかわかりません。
今時の会話もわかりませんから黙っていました。
僕は妹にたくさん我慢をさせてしまった過去があるのです。

妹は、無邪気だ。
僕に気兼ねもせず、怖がらず、ちょこんと横に座るんだ。
 何か用事があるわけでも無く、ただそこに存在する。
話すことも無いから、顔を見つめるけど、ただ見つめ返すだけで、何も求めて来ない。
それだけでいいのなら、僕でも妹の期待に応えられそうだ。


僕が、自分のことを客観的に見れるようになったのは、妹のお蔭だと思っている。
母と居ても特性が似ているので仲間になってしまい、共感は出来るが客観視は出来なかっただろう。
妹は、僕があまりにも酷かったので小学生の時に祖母に預けられた。
しかし、僕が猫を飼い始めて落ち着いた頃から戻ってきた。

妹は定型でありどこもおかしくもなんともない普通の女の子だ。
母は、僕が猫に癒されおとなしくなった(牙を抜かれたのかも)のを見て判断したのか、妹との同居を決めたのだ。僕が中学三年の冬である。
妹は年子なので中学二年生だった。
妹の部屋を作ることになり、母と妹は嬉々として、掃除をしていた。

僕は、最初少しだけ不満を言った。
妹は、知らんぷりで取り合わない。
これがまた良かったのかもしれない。
僕が何か言うと
「ハイハイ、そうだね。」
と言うだけで意見を言ってこない。
母曰く、妹じゃなくってお姉さんみたいねとのことだった。
実際僕もそう思った。
僕は弟として、扱われるようになった。

妹とは小学生の時には、僕が暴言を吐き妹も応戦するといった具合で、さながら戦争だった。
周りから見ると、まさか兄妹には見えなかったと言う。
憎しみ合う二人。
親の仇うちみたいに見えたそうだ。
そしてまったく顔が似ていない。
僕は目つきが悪いし、妹は目がパッチリの美人で日本人離れした顔だ。

僕は、突然一緒の空間に居るようになった妹を何度も凝視し、においを嗅いだ。
クンクンする兄を妹は、やはりハイハイと受け入れてくれた。
髪の毛もクンクンいいにおい!僕は、腕にも触ってみた。
スベスベの肌は、母とはまるで違ってキメが細かくハリがあった。
僕は感嘆し、妹を見ると腕を触りたがった。

何故か妹は、嫌がらずに腕をスベスベさせてくれた。
僕は驚いた。
もしも僕がこんな仕打ちを受けたのなら、相手をブッ飛ばしているだろう。
しかし妹は違う。穏やかな反応を見せる。
これはどういうことなのだろうか。
僕が分析していると、妹はお構いなしで僕をナデナデしてくれる。
これはいったい!?

しかし、悪い気はしない。
僕は、毎日ウキウキしながら妹をスベスベし、その穏やかな反応を楽しんだ。
僕は、あれだけ小学生の時に敵対していた妹が大好きになったのだ。
そうなると、金魚のフンである。
学校から帰ってきて外のにおいがする妹に抱き付き頭をナデナデして、一緒に遊ぼうと誘う。

遊びは、僕の得意なゲームだ。
僕は、コントローラーを持って妹にも持たせるが、あまり関心は無いようだった。
それならばと、今度は絵を描こうと誘い、妹が描く絵をジロジロ見た。
見ちゃダメと言われ、頭を押さえつけられた。
普段ならここでブッ飛ばしているのだが、不思議とそうしなかった。

妹は非常に規則正しい。
朝は決まった時間にアラームで起き、学校に行く。
帰宅すると、僕にスベスベされてから、オヤツを食べ勉強も決まった時間にやり、寝る時間も21時である。
僕は、妹の行動を観察した結果、それは時計を見て生活をしていることに気が付く。
母も僕も時計なんて見ていなかったのだ。

母も妹が来てから時計を購入した。
リビングに置かれた電波時計が僕たちに時間の概念をもたらせた。
それでも、もっといっぱい遊びたい僕は、妹とDVDで映画を観ているときに、21時が過ぎてしまったため寝ようとする妹にすがり付き、もっと観ようよとせがんだ。
すると妹は
また明日。
と寝てしまった。

また明日、の言葉が僕を支配した。
明日って何。明日だって。
とブツブツ言いながら、思考した。
ということは、何も今無理して観なくても明日のお楽しみですよ、ということと、おまけに明日も観ましょうね、というセットになっていると思った。
これは、なかなか使えるなと、また明日、を覚えた。

翌日学校から帰ってきた妹に、また明日と言ったことを言いDVDを観た。
妹もニコニコしてとてもゆっくり観れた。
妹は上手に人との付き合い方を僕に教えてくれたのだった。
母は、僕にも妹にもおなじように接したが、妹には我慢させることが多かったように思う。
それには僕の知らないことがあったのだ。

母曰く、妹にはしっかりと僕の発達障害のことを話したのだそうだ。
そして、本を何冊か購入し、同居する前にしっかりと読ませたのだそうだ。
対応の仕方まで伝授していた。
妹にだって頭にきたことはあったはずだが、いつもニコニコ接してくれた。
母は、妹が僕のことで頭に来るサインを拾っていたのだ。

妹が、いっぱいになると、母は登場した。
上手に切り替えていたのだそうだ。
どういうタイミングだったのかは、僕にはわからなかったが、連携プレーだと言っていた。
僕は、ここだけの話、妹が学校に行くと姿が見えないので、あれ!?と探して、妹のベッドで寝たりしていた。
酷いシスコンぶりだ。

妹のベッドでスヤスヤ眠る僕を見て、妹はニコニコしていたのだと言う。
何故迷惑じゃないのかは、わからなかったが母はそれが兄妹っていうことなのよと言った。
同居を始めたばかりの頃は、こんな感じで妹にはずいぶんくっ付きすぎていた。
そこで僕は他者との距離感を受け入れることの大切さを知った。

同居も落ち着いてきたころ、妹が勉強をしているのを、僕は横で見ていた。
妹の字はとても綺麗で丁寧だ。
きちんとしていて読みやすい。
僕は数学の宿題を見て、あーだこうだと説明をしようとする。
しかし妹の解き方とは、全然違うので妹は混乱してしまった。
僕はストレートに答えを導くし妹は回りくどい。

だからね!と講釈を垂れようとしている僕に妹は言った。
「それはね、私にはわからない解き方なの。だから押し付けてはいけないの。」
ねっ!と言われて僕は黙った。
へぇ、そういう人もいるのね、とここでやっと違う考え方をする物もいるのだとわかった。
スラスラと鉛筆を走らす妹を見ているだけにした。

不思議なものだ。
小学生の頃、僕は妹に対して憎しみしか感じていなかった。
母を取られたくないというのと、邪魔されたくないのと、馬鹿にすると食って掛かってくる顔が面白かったのと様々だが成長した僕は、一切そうは思わなかった。
母は、やっと認めようって気になったのよ。
と言い
お利口ね
と言った。


妹と再度、同居出来て僕は嬉しく思っている。
時間を見ながら生活し、僕を認め、自分の意見も言う妹は、僕の宝物である。
今では高校生になりアルバイトして自分でしっかりお小遣いももらわずにやっている。
そして僕にはずっと優しくしてくれる。
母の同居の決断はタイミングが最高に良かったのだと思う。


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2015年6月15日

兄は僕を認めてくれていない。
小さい頃は可愛がってくれていたのに。
僕は一人で仕事をしているが「そんなの安定しない」と。
僕の障害がわかった時も非常に迷惑そうな顔をして、「兄弟じゃない」と言い放たれてしまった。
同じく障害を持つ母と僕と縁を切りたいとまで言った。
僕らが何をしたというのか。

僕は悲しみという感情は薄い。
その代りに兄の言った言葉に誤りを感じた。
兄とは兄弟の縁。これはどうやっても切りようがないのだ。
障害者と関わりたくないという兄を僕は説き伏せようと兄に直談判に行った。
すると兄はあろうことか木刀を持ち「お前の面倒など見ない」と言った。
僕は、悔しくて泣いた。

僕は、悔し涙で真っ赤になりながら兄に言った。
「僕は兄を兄として敬う。これは何があっても変わらない。僕らは何があっても縁はあり続けるのだからその木刀は必要ない。僕のことは切って捨ててもよいが、母だけは共に助けなくてはならないじゃないか。」
そう言うと、兄は黙って泣き出してしまった。

兄とは、それっきり真剣に話すことはなくなり、距離を置かれるようになった。
僕は兄に認めてもらうため、自分の仕事とするための勉強をし始めた。
しかし、そのお蔭で僕は今の仕事にありつけた。
今も兄には、避けられているが兄との衝突が無かったら僕は自分を生きる決心が出来なかったかもしれない。


2015年6月18日

兄が友人と、御飯を食べに行ったよ。
出かける前に、僕はいくつも質問した。
友人て誰なの何人?
御飯はどこで食べるの?
どんな遊びをするの?
どうやって連絡を取り合うの?
僕は、経験したこと無いから一緒に興奮した。
お土産話しは無いけれど、僕は行った気になれるから満足だ。


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