発達障害なう

ツイッターで、投稿したものをコピーしてあります。

亡母について

【ご注意】このブログ(ツイッター含む)の文章の内容は、僕が障害を乗り越える過程です。現在進行形ではありますので、人によっては不快に思ったり、障害当事者の方は、フラッシュバックを起こす危険性もあります。文章で生々しく当時のことを再現しておりますので、閲覧される場合はじゅうぶんご配慮の上、自己責任でお読みください。また、自傷などは、一切僕はしておりません。
また、このブログに書いてあることは、あくまで、一障害者の発言であり、専門家の意見ではありません。僕の発言だけを鵜呑みにすれば、危険をともなうことになりかねません。そして、僕の文章は、全てを網羅するものでもなんでもありません。そして、発言内容を他者に押し付けるつもりもございません。その点、ご留意の上、お読みくださると幸いです。
【自己紹介】ADHD アスペルガー症候群 強迫性障害 反社会性人格障害 10才で診断。双極性障害は19才で診断。 小1からの出来事をツイートしています。発達障害関連無言フォローします。愛の手帳4(療育手帳B2)障害者手帳1級取得。精神年齢14才。亡母がアスペルガー・ADHD、現在21才。フリープログラマー♂ 2015年6月9日スタート

一番辛い時期

母について、去今からちょうど一年ほど前、クリスマス頃にツイートしたものです。
この頃は、まだ、母を亡くしてから日が浅かったので、心の整理も出来ていませんでした。
体調もメンタルも調子が悪く、兄や妹の世話をしながら、自分を整えていました。
仕事は、休業していました。

今思えば、一番辛い時期だったと思います。

【2015年12月18日 ツイート】

部屋の片付けをしていたら、母の遺品がほとんど無いことに気が付きました。
服も下着もバッグも時計も使っていたブラシも食器も全てありません。
あるのは使っていない昔の携帯と、アクセサリーボックスだけです。
遺書もありませんでした。
写真は、まとめて引き出しの中にしまわれていました。

完璧に私物が片付けられていることに、今更気が付きました。
いつもバッグが掛かっていたフックに何も無いことにも、今気付いて驚いています。
洗面所も、歯ブラシだってコップすらありません。
おばあちゃんに聞いたら、服は、廊下にまとめられて置かれていたそうです。
袋二つ分だけだったみたいです。

僕は、母を亡くしてからバタバタとしていて、ほぼ事務所暮らしでしたから、家に帰ることが少なかったので、家の変化に気が付きませんでした。
母は入院する時に、全て自分の私物を、処分してしまっていたようです。
僕たちが大変な思いをしないように、配慮してくれていたのかなと思います。

飛ぶ鳥後を濁さず、というように、綺麗に片付けて逝ったのでしょう。
僕は、49日を過ぎてから、後片付けをしようかなと考えていましたが、
どうやらその必要も無いようです。
調理用具や、皆が使うものだけが残っていますから、大切に使いたいと思いました。

【2015年12月24日 ツイート】

【母について】
自分の我儘を通して思い通りに楽しんできた
親に心配をかけたり不運もあったかもしれないけれど
わたしはすべてを含んでも人生を楽しんだ
重ねる時の数で重さを測らずに
重ねる楽しさで測りなさい
ママは楽しかったわ
子供たち
一緒に楽しんでくれてありがとう
感謝しているわ

クリスマス前夜ですね。
僕はずっと母について、うまく言えませんでしたが、やっと心の整理もついてきたと思います。
ツイッターをはじめる前から、僕は母を失うことについて逃げてきました。
どうでもいいやとか、無理するからだとか、可愛い子供を置いていなくなるとは、酷い親だとも思いました。

残された子供はどうなるんだと、産んでおいて無責任だと思ったこともありました。
しかし、それを誰かに言うわけにもいかず、一人悶々としていました。
母はいつも僕たちの傍にいたわけではありませんでした。
病弱であり、入退院を繰り返していたので、小さい頃は子供たちは皆遠慮ばかりしていました。

子供である僕たちからしたら、見慣れない母は「知らないおばさん」であったのです。
特に妹は、真面目にそう思っていたそうです。
中学生になる前に、「知らないおばさん」から、「実はお母さんでした」となったそうです。
ですから、妹が母とまともに過ごせた時期は、僅かに6年ほどでした。

僕は一番たくさん母と過ごせたと思います。
僕はとても問題児であり、母しか受け付けなかった時期があったからでしょう。
そんな具合で、僕以外の兄妹からしたら、彗星のように現れた母は非常にセンセーショナルに見えたようです。とにかく強烈なキャラクターでしたので、当然子供は最初戸惑いました。

特に中学生だった妹は大反発しました。
それはそうでしょう。
いきなり知らないおばさんに、お母さん顔されたら、頭にくるでしょう。
一通りの反抗をしていましたし、僕から見てもアラアラという感じでした。
僕はどうなるかなと傍観していましたが、あっという間に妹と母は仲良くなり結束したのでした。

僕が思うに、母は「真剣そのもの」であり、反発する娘に対して「目を離しません」でした。
とにかく何事も誤魔化すことはせずに、「ガチンコ勝負」だったのです。
そして、良いところをいち早く見抜いて、褒めたりもっと良くなる方法をアドバイスしていました。
人として信頼を得ていったのです。

僕はそれを目の前で見ていました。
親だからとか、自分の子供だからとか、そう意識を取っ払って、人として向き合っていました。
そしていつも、「あなたが大好きだ。」と、言い続けていました。
ずっとずっと何があっても言い続けたのです。
そして、外部から徹底的に守る姿と、厳しさも見せました。

そんな見本のような強い母でしたが、だからといって完璧ではありませんでした。
そんな聖人のような人が居るわけがありません。
数え切れないくらいの失敗もしていました。
しかし、とっても自分と人に、素直だったと思います。
また、人生を楽しんでいました。
なんでもかんでも楽しいと笑っていました。

そう思って、ため息をついていたら、母が一番先に言ったことを話したのです。
僕の肩をポンポン叩きながら。
手をギュッと握って、笑いながらです。
「人間の欲は限りないわねぇ。」
と言いまるで、同志にするように、グッと僕の肩に手を当て、
「でも愛すべき人は憎めないわねぇ。」
とニヤリとしました。

「先に行くわ。じゅうぶん楽しんだの。一緒に楽しんでくれてありがとう。自分の身体が限界になったから、さようならの時が近づいていますよ。」

僕は、それをどう処理していいのかわからずに、ふっとツイッターを始めてみたのでした。
母を失えば僕はどうなるのか、僕にもわからなかったのです。

僕は、涙を流すことも出来なかったから、苦しさも人に素直に言えませんでした。
まるで、感情が詰まっているみたいでした。
本当は、とても悩んでいました。
大好きな母を亡くすことを認めたくはなかったのです。
だから、平気な顔をして「母語録」を書いていました。
現実逃避したかったのかもしれない。

現実逃避をするうちに、僕は平気だよ、まったく平気である。
人の気持ちなんか持ち合わせていない。
母を失ってもなんてことはない。
ノーダメージだ。
そういう渇いた心の中に、少しずつじわじわと、育ってきたものを感じました。
自分を見つめることで、素直な僕が大きく育ったのだと思っています。

最近よく言われるんです。
僕が本当に変わったって。
僕は最初はそうは思いませんでしたが、だんだん自分でも自覚するようになりました。
最初の頃はトゲトゲしくて、人を馬鹿にしたり、蔑んだり生意気で、やりこめることしか頭にありませんでした。
それが、柔らかく和やかに穏やかになったのです。

ありえないことに、利己的だった僕が人を助けることまでするようになりました。
いったい僕はどうしちゃったのでしょうか。
人が変わったようだとも言われます。
何がそうさせたのか、僕にはまだわかりません。
育った部分は経験を経たこと、自分を認めたことのおかげだとは思いますが。
不思議です。

ただし、だからといって、僕の思考の仕方や回路が修正されたわけではありません。
自分でもどうしようもありません。
そこが障害を受けているのだから、治しようがないのです。
以前書いたことは、まだ僕の中にどうしても存在はするのです。
それでも、僕はそれを含んだまま学んだのだと思います。

亡き母も天に逝って、僕は明日19歳になります。
最後の18歳の今日に、ぶちまけようと思います。
夜中だっていうのに、馬鹿みたいだけど、しょうがない。
今日だけにするんだから。
僕の愚痴は今日だけなんだから。
今までうまく言えなかったけれども、母が居ないことはとてもストレスです。

家にいると、タイムマシーンがしょっちゅう僕の脳内に現れます。
家族皆で居た時の笑い声。
歓声。
失った時間ばかり戻ってきます。
打ち消そうと、そこに溺れないように必死で掃除をするけれども、拭っても拭っても湧いて出てくる。
戻してほしいと何百回も思いました。
辛くて辛くて身体が震えてきます。

この辛さを乗り切らなければ駄目なんだと、自分に言い聞かせながら、コツコツ家事をします。
兄や妹の方が強いです。
淡々と自分を生きています。
僕が一番堪えています。
見習って頑張ろうと思う、流されそうになるの繰り返しです。
自分の人生を楽しもうと踏ん張ろうとしています。
まさに崖っぷちです。

そんな風なので、休業をしたのです。
仕事は今はほとんど出来ない状態です。
でも僕はこんな自分も良いと思っています。
きっと以前ならここまで凹んだりしなかっただろうから。
ヘラヘラ笑っていたかもしれません。
ああ、成長する過程かも、これでいいんだ、って感覚です。
試練なのでしょうね。

最後の18歳に、僕はきっと今までたいして長くは生きていないけれども、一番人間くさくて、弱くなっているかもしれません。
辛いけれども、こういう思いを知ることが出来て良かったと思っています。
知ることで、もっと強くなれると信じています。
母のように、人生を楽しめる人になりたいのです。



辛い中でも、皆でクリスマスをしました。
母は、クリスマスをいつも楽しみにしていましたので、
必ずやってね、と遺言で言われていました。


今日は、家族みんなで集まってクリスマスにしました。
兄貴は、やったことないくせに張り切ってケーキを用意し、お皿やらテーブルセッティングまでしてくれました。
僕は、チキンをケンタッキーで予約してあったので、取りに行きました。
妹はサラダを用意して、サイくんはシャンメリーを開けました。

ケーキのロウソクに火を点けて、みんな何を言っていいかわからずに、黙ってしまいました。
亡き母がイタズラしに行くからねと言ってましたが、もちろん何も起こらず、火はゆらゆらと揺れました。
サイくんに火を吹き消してもらい、ケーキを切り分けて食べました。
皆でクリスマスに集まるのは最後です。

それぞれ、ここから新しいそれぞれの道に歩いていきます。
母は、きっとそう踏ん切りを付けさせたくて、亡くなってすぐのクリスマスを皆で集まらせるために、パーティをしなさいと言い残したかもしれません。
家族で顔を合わせ、心新たに、生きるためにチキンを頬張りました。
美味しかったです。



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母語録第五弾

母の言葉を集めました。

【母語録①】

診察のアナウンス。
「9番にお入りください。」
9番だって?何故末広がりの8番じゃないんだ。
もしかして、先生が9番が好きなのかな。
僕は1番がいいのに。
と、亡き母にブツクサ文句を垂れていたら、
1番は処置室だと言う。
だったら僕処置室でいいとぐずると
「あなたは、処置室で何とかなるレベルじゃないわよ。」
2016.1.23

【母語録②】

僕が友達に、ブタと言われたと母に言いつけると、
「あら、ブタは綺麗好きなのよ。」
と頭を撫で、
天然パーマを馬鹿にされたと言えば、
「あら、とても可愛いのに。ママは大好きよ。」
と言い、トロくさいなと言われたと言えば、
「亀もそうよ、マイペースでのんびり後でうさぎを追い越すわ。」
と返された。


僕は、友達を悪く言いつけているのに、
母は違う良い言葉で返してくる。それは、不思議と嫌な気分にならず、
自分の言い分を否定された気にはならなかった。
それを繰り返しているうちに、僕は悪口が気にならなくなった。
それが何故なのかは、わからない。
ただ、友達は違うことを言うんだ、とは思った。

友達は、違うことを言う。
僕のことを知っているわけでもないのに、ただ言う。
それを理解したのだと思う。
僕をよく知っている母は、僕を違う意味で捉えていたからだ。
ふうん、なあんだ。
と、悪口を言われる度に、何度も納得し、
僕の肩を抱き寄せる母に、頷きながら笑ったのを、今でも覚えている。


プラスの言葉しか言わない。
ってある意味凄いじゃない?
脳内変換がそうなっているのでしょうか。
僕はいつもマイナスの言葉を吐き、
その度に、母はマイナスを否定せず、プラスを与えた。
諦めずに与えてくれたおかげで、
僕は見事にマイナスの言葉すら、プラスに感じるようになったよ。
2016.5.22


【母語録③】

僕がふざけて
「僕のガラスのような心が傷付いたらどうするんだよ。」
と言ったら、
母は、
「まあ、あなたの心は、たとえるならば、マグカップですわ。」
と言った。
なんだそれと聞いたら
「ガラスのコップは、冷たいものしか受け付けませんけれども、
あなたは、温かいものを入れることが出来ますから。」


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母語録第四弾

【母語録①】
僕は今まで母に育てられて来た中で、いくつも心を軽くしてくれる言葉がたくさんありました。
これからも、その言葉を思い出しながら生きていきたいと思っています。
以前書いた母語録に誕生日のことを書いたものがありました。
今となっては、もしかして母はわざとかな?なんて思うことです。

以前の母語録↓
大きなケーキを買ってきて、それぞれプレゼントを用意し食卓を囲む。
これだけは例外なく参加せねばならないのだ。
電気を消して「ハッピバースディ♪」の歌を唄い、おめでとうと拍手され火を吹き消すのが楽しみでならない。

僕は18才ですが、母曰く
「あなたは、特別に20才まで延長してあげましょう。」
とのことです。
ろうそくを吹き消す権利は、誕生日の本人だけの特権となっており、家族に祝ってもらえる本人は、嬉しさを隠せない笑顔を見せます。
きっと、ひきつりながらも嬉しくてくすぐったい顔をしていると思います。

↑ここまで

母は、僕たちの20才の誕生日までは、持ちませんでした。
それどころか、18才の時に亡くなってしまった。

母は、延長と言ったのにおかしいなあって思ったりして。
祝ってやるといった本人が居ないのだから。
そういえば、入院中、母はカレンダーに予定を書き込んでいました。
僕らの誕生日に花丸をして、ケーキの絵を書きました。
そして
「今年も必ず誕生日にはケーキとケンタッキーを予約してね。
私がもし存在しなくなっても必ずよ。」

と、ニヤリと笑いました。
何?と聞くと
「イタズラしたいからよ。今年と来年ロウソクを消すのは見えない私かもしれないわよ。」
と僕とサイくんをぞっとさせました。
もちろん、言いつけを守り予約を済ませました。
母が、20才まで延長すると言ったのは、それまでは、「現れる」ツモリだったのかな。

【母語録②】

母が入院しているとき、面会に来なくてもいいと言いました。
「病人が居るということだけでも家族はバランスを崩して大変なのだから、私の心配をするよりも、皆で力を合わせることに時間を割いてほしい。」
母は洗濯や売店への買い物なども、歩けるときには自分で最期までやっていました。

母のベッドの傍には、家族の写真を額に入れて、飾っていたのを覚えています。
僕は言いつけを守り、面会にはあまり行かずに、母代理をこなしました。
おかげで僕は、母が今までしてくれていたことを、
当たり前に受け取っていたことを、早めに気が付くことが出来ました。
だからこそ、最期にしっかりと母に御礼を言えたのです。

【母語録③】

仕事で時間に追われている僕に母は、
「時間や月日も全部、ただの数字の集まりなんだから、数字につぶされることはないわよ。
数字が好きなあなたなら、うまく付き合えるはずよ。
大切なのは、今何が重要なのかってことよ。
重要なものを優先させれば、数字なんて気にすることすら忘れるわよ。」

【母語録④】

「自分が煮詰まったり、空回りしているなと感じたら、
人に対して感謝が足りないとういうサインよ。
早速、人のために自分の手を尽くしてごらんなさい。
損得は考えずに、ただただ動くことよ。
そうすると、不思議と行く道が見えてくるわ。
人は人からしか、学べないものだってことだわねぇ。」

【母語録⑤】

「守っているものが剥がれて、自分を覆い隠すものが無くなった時。
人は、剥き出しになったことに、戸惑うものだけれども焦ることはないわ。
剥き出しになることで、今までの垢だって一緒に落とせるのだから。
成長のチャンスなの。
あなたも、ぐんぐん伸びていくために剥がれるのかもしれないわ。」

【母語録⑥】

「あなたが生きている地球には、何一つ人が所有できるものはないのよ。
全ては与えられたものだということ、肝に銘じなさい。
そして、何かにこだわって先に進めなくなったり、
失いたくないと不安になったら 、それは手放すことで楽になるのよ。
何故かって、必要なものは与えられているんだから。」

【母語録⑦】

「私が死んだからといって、母親っていうのはね、
あなたたちにとっては、永遠に母なんですからね。
死ぬということは、物質上だけのこと。
それは終わりを迎えたとしても、そこで消滅するわけでないのよ。
魂は、消えるどころか成長するのよ。
魂の母親は、子供たちが育てるものなのだから。」


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勉強

【2016.5.16】 ツイート

家に帰り、
ランドセルを放り投げ
学校疲れたな
とほっとする
しかし宿題がある
学校はまだ解放してはくれない
鉛のように疲れても
カラカラに喉が渇いても
学校で勉強して来たのに
まだ勉強しなさいと追いかけてくる
だから
僕は宿題プリントを破って
川に流してたのさ

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川にプリントを流していたことは、後々母にバレてしまいます。
母は
「あはは、いやだわ、宿題プリントを川に流しても川は宿題いたしませんよ。
川は、宿題、勉強を必要としないからです。
あなたは必要とされている勉強を、他に押し付けてはいけませんよ。
やれなくても押し付ける方が罪ですわ。」

僕は、小学校4年で授業について行けずに、特別支援学級に在籍することになりましたが、まったく勉強がわからないわけではありませんでした。
ただ、理解が遅かっただけです。
また、非常に反抗的でしたので、授業をまともに受けられませんでした。
そのため、僕には心の発達の時間が先に必要だったのです。

母は、僕の学校での様子を聞き、勉強よりも、分別をつけることを先に教えようとしていました。
そして根気よく、何故学校があるのか、勉強をするのか、先生とは何か、クラスやクラスメイト友人とは、と様々な話をして僕が理解した上で、向上心を持つように、また分別をつけた行動を促しました。

僕は狡かったので、面倒な勉強はやりませんでした。
すると母は何も言いませんでしたが、
「勉強は、必要なものですが、あなたがあえてやらないことを選択するなら、それはまだあなたには早いということでしょう。それならば、先々そのぶん自分で勉強するということですから、わたしは楽しみですわ。」

僕はフンと言い、じっくり勉強について考えることになりました。
母は相変わらず、温かな食事と笑顔で接してくれ、ランドセルの中で眠っているプリントのことには触れませんでした。
僕は、面倒くさい勉強を、本当にやらなくても良いかと、漫画を読みながら考えました。

当事、読んでいたバガボンドの主人公武蔵は、常に向上心を忘れません。
僕は、自分を向上させるには、どうしたら良いのか考えるようになりました。
が、うまい答えも見つからず、学校も嫌いになり通わなくなりました。
一日中、ぼうっとしたり、母にくっついて歩いてました。
母子分離不安が酷くなったのです。

母は、僕を常に受けいれてくれ、嫌な顔ひとつしませんでした。
ただ、逃避して甘えていたんだと思いますが、心を発達させるには、必要な時間だったのです。
毎日毎日、僕は、勉強もせず、ボンヤリ過ごしました。
そして、小6になってから、まるで充電が終わったように、母にお願いしました。

「プリントを作って欲しいんだけど。」
僕は母に言いました。
既に僕は、まるっきり授業にはついていけませんでしたし、ロクに字も書けませんでしたから、一からの勉強になるのです。
母は、「わかりました」と言って、それから毎日、国語と算数のプリントを、中学を卒業するまで作ってくれたのです。

母のお手製のプリントは、大切な宿題となりました。
体調が悪いとやれないときもありましたが、マイペースで進めてきました。
僕は興味のあることはトコトンやりたい、極めたいところがありましたが、それには、勉強をしておくことが必要なんだと納得し、理解出来たからこそ、取り組めたのです。

勉強は、目的がはっきりしないとやる気も起こりません。
人は、意味のないことは、すぐに飽きてしまいます。
僕が宿題を川に流していた頃は、その目的や意図がわからなかったからなのです。
宿題なんてただの嫌がらせだとさえ、思ったほどですから。
それを自分で気が付くことが、非常に大切なんだと思います。

母は僕が宿題をやらないことを、勉強をしない駄目な子だとは思いませんでした。
ただ、勉強が必要なところまでは安定せず、心が整っていないだけなのだと言ったのです。
ですから、基本的な心を育ててくれたのでしょう。
毎日のプリント作りは、本当に大変だったと思います。
母も一緒に勉強しなおしていました。

「勉強は、明日生きていく自分のためにやるものです。
自分が強くなるために、試練を与えるのです。
試練は自分を大きくし、生きていく力を大きくします。
試練ばかりは、自分だけではありません。
うまく簡単にはいかないのが人です。
転んでも良いのです。
転べば先の自分は、広がるのですから。」

母は、僕がこの先社会に出た時に、発達障害を抱えながらも
たくさん転ぶことがあるだろうと、わかっていたのでしょう。

それならばと、僕に必要な転ぶことを恐れない心を作り、分別をつけたのだと思います。
そして、僕が興味のあることに集中出来るように、試練の意味も教えてくれたのだと思いました。

今では、川に流してしまったプリントを、もったいなかったなと思います。
しかし後悔はしていません。
プリントを流さなければ、勉強の意味を理解する機会を、得ることが出来なかったのですから。

また、心の安定や発達は、勉強よりも大切なことなのだということも、母から教わることが出来たのです。




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母との別れ

おはようございます。
仕事と、紅葉を見に河口湖に来ました。
ホテルからの眺めです。とっても美しいです。
母が良くなるように富士山にお願いしました。
まだ返信出来なくてごめんなさい。
落ち着いたらします。

いつ母が危篤になるのか、わからない状況で僕は仕事で出張に行かねばならず
心配で仕方がありませんでした。
目の前にそびえ立つ富士山を見て

どうか、母にパワーを分けてほしい

と、祈るような気持ちで富士山を見つめました。

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しかし、その祈りもむなしく、母は僕が出張から帰った翌々日、危篤状態となりました。
僕は、母が亡くなるその瞬間、兄妹を連れて急ぎましたが
間に合いませんでした。
最期に母を見ていたら、すがりついてしまったかもしれません。
何故、母を僕から奪うのか、兄妹から奪うのか。
悔しくて仕方がありませんでしたが、僕はそれを見せませんでした。

病院からの電話を受けた僕は、涙を流せずに、雨の中、
キラキラ光る電灯を、ずっと見て温かさを探していました。


いろいろあった人生だけど
笑って送り出そう
心を教えてくれた母に
感謝して僕は強く生きていこう
温かさはしっかりと受け継いでいくからね
きっと今頃鳥のように自由に
空を飛んで夜景を楽しんでいるかもしれないな


母が帰らぬ人となりました。
家のほうではバタバタしており、大変な騒ぎです。
母はやっと自由になれたように、穏やかな顔をしています。
僕は、これからは兄弟をまとめるために、しっかりしようと思っています。
今後の僕たちの生活のために、最近は整えるために走り回っていました。

僕の家は母子家庭なので、母が不在になることはとても考えられませんでしたが、
何とかしようと必死で考えました。
僕が今後はサイくんと妹の支援をすることに変わりはありませんが、
僕だけの力ではどうにもならないので、皆の協力をお願いしました。
僕も頭をフル回転させたのでうまくいくと思ってます。

こんばんは。
たくさんの方々のメッセージありがとうございます。
個々に返信出来なくて申し訳ないです。とにかく忙しかった。
自分の時間なんてほぼ無くて、家のこととか、家族のこととか、
仕事も休めないし、調整するのに時間を取られました。
複雑な事情もたくさんあって、頭を使いました。

母が亡くなったので、僕が頑張るしかないし、
兄貴はいまひとつ(父親が違うので)意見も合わずでやりにくかったです。
兄貴は悪い人ではないのですが、とっても頑固です。それと、僕のやり方が気に入らないのだと思います。それでも、家族だしうまくやらなくっちゃいけないから難しいです。

僕がこれからやらなくてはいけないことは、障害が重いサイくんを支えること、
妹が自立するまで面倒を見ること、です。
兄貴はもう自立しているので、問題はないです。
それに、僕の会社もちゃんとしなくっちゃいけない。
おばあちゃんのことも支えたい。
やることいっぱいです。
おまけに父親のこともある。

父に母が亡くなったことは、いろいろ終わってから伝えましたが、何とも言えない人です。
僕は呆れるしかありませんでした。
何故かといえば、父はまた仕事を辞めていました。
母に折角面倒見てもらったのに。なんだか、ガッカリします。
いつまでも、仕事が長続きせず、支離滅裂です。
話になりません。

こんな父に、後見人になってもらうわけにはいきませんから、
僕は、事前に僕達未成年組の後見人となれる人を事前に決めていました。
それで良かったと思っています。
僕はツイッターを始めたころから、母の余命が短いことを知っていたので、
ずっと自分たちを守ることを考えに考えて出した結論でした。

きっと、母も安心してくれていると思います。
19歳になる姿を見せれなかったのは、いやもっと言えば、
成人する姿を見せれなかったことは、残念ですが欲を言っても仕方がありません。
僕は今後は、サイくんと妹を守ることを優先に考えたいと思っていたので、
父を頼るより自分を強くしたいと考えました。

と、いうことで、まるでパパです。
これからの僕はパパみたいに、なろうと思ってます。
まだ、18歳ですが、考え方がとても大人になったと思います。
母のおかげでこんなに強くなれたんだなあと感謝しています。
母は、面白い人でしたから、お葬式も家族葬希望で、通夜には喜んでくれという遺言でした。

母が亡くなった時、僕はとにかく何とかしなくっちゃばかり考えていました。
サイくんは、もう動かない母を見て、様子が違うなと変な風に感じていました。
腕を何度も動かしたりして、反応が無いので
「動かねぇ。」
とポツリと言いました。
妹は涙を目に溜めてじっとしていました。
兄貴は号泣していました。

空が暗くて、夜景が綺麗な夜でした。
いよいよ母を送るときは、空も天も泣いているように、雨が降り出しました。
泣けない僕に代わって泣いてくれているのかなって感じました。
人が死んでも町とか信号も動いているし、時間も動くし、何も止まらなくて、
母だけが止まったんだと思いました。

僕にとっては、人の死は、動かなくなる、
もう智慧を授かれないということで、残念としか言い表せません。
声も聴けないのでそれもつまらないことです。温かさもありません。
しかし、それは僕の心の中にずっとあるし、継承しているので、
今後はそれを残された生きている人に発揮したいと思います。

亡き、と言わなくてはいけない母をかわいそうには思いませんが、
なんといったらいいのか、良い人であり、良い母親だったと思っています。
とてもユーモアがあり、愛らしい女性で、母性溢れていて、見習うところがたくさんありました。
そして僕と人とを結んでくれたことには、心から感謝しています。

ツイッターをはじめて、僕はとても変わったと思います。
最初のころなんて本当に酷かったと思います。今思い出すと笑ってしまうくらいですが。
いろいろな人がツイッターでも関わってくれたり声をかけてくれることは、大きな栄養になりました。
直接人と関わることが難しい僕なので、余計に助かりました。

ここがあるから、ここで僕が変われたからこそ、今踏ん張れたと思います。
じゃなきゃきっと酷い人になってたかもしれません。
人は一人じゃ生きれないんだって母を亡くして僕はとってもそれがよくわかりました。
この場を借りてフォロワーさんにお礼いたします。
いつも支えてくれてありがとうございます。

そして、家族ともこれからは、困ったらお願いするとか、僕も無理をしないで素直に接するツモリです。
僕が頑張るためには、誰かの協力が必要だってことも理解しました。
自分だけで何とかしようと意地を張っても、まだ僕には難しいです。
今後は、和というものを勉強しなくっちゃと思っています。

ずいぶんお休みしましたが、ツイッターも再開します。
今までは本当に、なかなかお返事も出来ませんでしたが、
これからは余裕があればまた、みなさんと話したいと思います。
そして障害のことも、今後も付き合っていかなくてはいけないので情報交換などしていきたいです。
よろしくお願いします。




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